LOST
From THE KING OF FIGHTERS’96
1995
喧騒から離れた裏通りに面したアパート。
部屋は殺風景だ。一面のフローリングに大きなクッションが数個と灰皿。
観葉植物が何の表情もなく、ただそこにいる事を義務付けられたかの様に佇んでいる。
乱雑に散らばった大きなクッションの一つに、一人の少女が座り込んでいる。
その部屋の主が帰って来るのを待っているのだ。
先程から何度もそうしている様に、腕時計に目を走らせる。PM9:28。
時を刻む針を確認して小さく溜め息を吐き、鉢植えのパキラにそっと手をやる。
パキラは彼女が持って来た物だった。この家にある生活に必要な物などの半分以上は、彼女が選んで持って来た物だった。
当初は窓にカーテンすら無く、埃まみれの電灯の笠の内側には電球が無かった。
TVは無い。代わりに大きなステレオとコンポ、CD。アンプとベース。備え付きのクローゼットに服と装飾品。
その家にあるのはそれ位だった。
調理器具の整った台所からは、冷めかけた料理の匂いが微かに漂っていた。
今度は壁に立て掛けてある、ボード状のカレンダーに目をやる。今日の日付の所は赤い丸で囲まれていた。
それを確認し、静寂の中やけに大きく響く時計の秒針の音を、煩わしく思いながら彼女は一人言ちる。
「今日…だよね…?」
伏せられた長い睫毛の下、不安に揺らめく瞳は下方 フローリングの床の木目プリントへと注がれていたが、
その視線は遠い何かを見ていた。
昨日の様にも思える別れを、彼女は思い出していた。
「じゃあ…いってらっしゃい」
アパートの前で、旅立とうとする恋人に彼女は必死に微笑みを作って言う。
「ああ」
男はそう短く応えると、彼の赤いパンツのポケットに手を入れ、そこから鍵を取り出して彼女の小さな手に握らせた。
掌にある鍵を見て、彼女は男を見上げる。その身長差は優に20cm以上はある。
「あ…でも私、自分の鍵持ってるし…」
少々当惑の色を見せる彼女の瞳を、男は切れ長の静かな目で見、ポツリと言う。
「お前が持っていろ」
その言葉に、彼女は静かに頷く。
顔の不自然な強張りが、何時の間にか消えていた。
握り締めた鍵を手に彼女は、ゆっくりと歩いて行く愛しい男の後ろ姿を何時までも見送っていた。
夜の闇の中に、彼の黒いジャケットの背に刻まれた細い月が消えて行く
PM11:58
十時頃から彼女はアパートの外に出て、男の帰りを待っていた。
ポツ…
頬に冷たい雫が当たる。
天を仰ぐと、月も星も無いどんよりとした灰色の雨雲が一面を支配していた。
AM4:06
雨は午前二時頃のピークと比べて、大人しくしとしとと降り注いでいた。
その間、傘を取りに一度中に入ったものの、彼女はずっと外で立って待ち続けていた。
傘をさしてはいたが、風があったので全身が濡れに濡れている。吐く息が白い。
歯の根が噛み合わず、カチカチと小さな音を立てて紫色の唇を震わせる。
芯まで冷えた右手は、傘の持ち手にくっついてしまったかの様に指一本動かせない。
そこまでして帰りを待ち望まなくても良いと思うが、それはその行き先と目的による。
戦いに行ったのだ。
戦争ではない。戦争に比べれば個人的な、エンターテイメント的なバトルショーなのだが、
その戦いにエントリーする選手達の超人的な戦闘能力を考えると、戦争より最悪な戦いかもしれない。
八神流古武術を操る彼には、宿敵がいた。
草薙京。
八神流と対を成し、またコインの裏と表の様に対局の位置にある草薙流古武術を操る男。
彼 八神庵は、草薙京に対して異常な程の執着と殺意を持っていた。
普段とても静かな庵が、京に関わる時だけ信じられない程の激しさを見せるのだ。
勿論、一般人であり大切な恋人である彼女と過ごしている時は、そんな顔は見せないので実際彼女は目の当たりにした事はない。
彼女の父親の雇った者による証言であった。
彼女の家は八神・草薙には及ばぬが古くからの名家だ。祖父は高名な陶芸家、祖母は歌人。父は政界の大物で、母は生け花の師範。
彼女はそんな環境で育った、正当な令嬢であった。
古い家同志の付き合いの中、よく取り交わされる約束。
彼女と庵は幼い頃を知った仲であり、許婚(いいなずけ)であった。
本人の意思とは関係なく決められた婚約者だが、こんな高いレベルの家同志の約束では破棄など出来る筈はない。
彼女は両親・祖母には絶対服従と言う教育をされてきたので、逆らう事は出来ない。
また、庵は逆らう理由も無く成されるがままにされていた。
二人は物心付いた幼い頃から、お互いをそういう対象として付き合うように教育されてきた。
だが、周囲の圧力が無くても彼女は初めて会ったその日から、
庵に対して定められた婚約者という思い以外に彼を想うようになった。
庵は庵で何も言わなかったが、幼い頃から空気のようにそっと温かく側にある彼女に対しては優しく、大切に接していた。
彼女を見た者がはっと振り返るような美少女に成長した今も、その関係は続いている。
今時の女性には珍しく、大人しく物腰の静かな、それでいて才色兼備の彼女に想いを寄せる男性は少なく無かったが、
彼女が初恋の人であり夫となる男に生涯を捧げている事を皆が知っていた。
それに、実際庵を目の前にして迫力負けしなかった者はいなかった。
大抵の人より頭一つ高い長身に、武術によって鍛え上げられた鋼の様な肉体。揺るぎ無い静かな瞳。
地を這うような低い声に、その圧倒的な存在感。何もかもが凡人離れしていた。
彼がベースを弾いているバンドのメンバーも、彼には一線を引いて付き合っている。
若いカップル特有の、笑い声や、子供っぽい甘えや打算・駆け引き、嫉妬や喧嘩などは二人の間には無かった。
その様子は、古い神木の根に守られてひっそりと咲く白い百合を連想させた。
庵について彼女が知らない事は、沢山あった。だが、敢えて庵の全てを知ろうなどは思わなかった。
普通の枠組みでは測れない、測ってはいけない孤高の 王者とも言うべく存在である庵の、少しでも安らぎになれればそれでいいと思っていた。
庵が異常なまでの殺意を抱く京に対して、庵のそれ程の情熱に嫉妬とも不安ともつかない気持ちを抱く時もある。
だが、京に対しては基本的にどうとも思っていない。会った事も無い人物だ。庵の敵だからどうこうなどは思わない。
だが、庵は京と戦う為に戦場へ旅立った。庵が勝って戻って来る事を願うのは当然だ。
いや、勝たなくてもいい。庵の意志、プライドなど無視してただ自分の本音を言えば、勝敗など二の次で庵の無事がただ一つの願いだった。
悪寒に震えながら、頭の中の「もしかして」を振り払おうと、頭を小さく左右に振る。
濡れて束になった、長いストレートの美しい髪の先から水滴が飛んだ。
パシャ…
水溜まりを歩く音がした。
敏感に反応し、耳を澄ませる。
幻聴ではない。雨に降られる路面をゆっくりと歩く足音。
小さかったそれが、次第に大きく確実なものとなって近付いて来る。
帰って来た。
闇から溶け出て来る様に、庵は雨の中をゆっくりと 彼女の元を去った時と同じ様に歩いて来た。
傘は無く両手をパンツのポケットの中に入れて、少し俯き加減に歩く。長い前髪の先や精悍な顎、高い鼻の先から水滴が滴る。
喜びと安堵に高鳴る胸を押さえ、彼女は焦って駆け寄る事はせず、庵がアパートの前まで来るのをじっと待つ。
丁度、出かけた時と同じ位置だ。
彼女の前で立ち止まった庵に、彼女は腕を伸ばして傘をさす。そして、咲き誇る花の様な、可憐で穏やかな笑顔で彼を迎えた。
「お帰りなさい」
庵は無言で彼女の手から傘を取り、言った。
「ずっと待っていたのか?」
疑問形の様に上がりもしない、下がりもしない、抑揚の無い独特な言い方に、彼女は彼がそこにいる事を痛感して、自然と口元を綻ばせながら答える。
「ううん。早起きしただけ」
明らかな嘘を庵はすぐ見抜く。
夜目にも白い肌は寒さの為紅潮し、形の良い耳などは真っ赤だ。
逆に、口紅を塗らなくても紅い唇や細い指先は今や紫に変色している。平気を装っているが、口元は震えを隠しきれないでいる。
ワンピースはずぶ濡れで肌に張り付いている。
それでも健気に微笑みを浮かべ、大きな澄んだ瞳で庵を見詰めている。そこには純粋な喜びしか存在しない。
これはそういう女だ。と庵は心で呟き「そうか」と言うと、彼女の細い肩を抱いて久し振りに帰宅した。
玄関に入り、猫の様に頭を振って水気を払う庵に、体に張り付いたワンピースのを手で摘んではがしながら、彼女は言う。
「びしょ濡れ。お風呂に入って」
その言葉に庵はふと動きを止め、ゆっくりと彼女に向き直りその目をしっかり見詰めて言う。
「お前が先に入れ」
そのまま無言で見詰められ、十数秒の沈黙の戦いの後彼女は溜め息と共にガックリと項垂れる。
そして顔を上げると腰に手を当て、唇を尖らせて少し上目遣いに庵を見遣る。
「じゃあ、私が入った後きちんと入ってね」
「ああ」
庵の答えを聞き、彼女はバスルームへ向かう。
濡れたジャケットとドレスシャツを脱ぎ捨て、床に座り込んでベースを爪弾いていた庵に、
細い体にバスローブを纏い、長い髪をタオルで拭きながらバスルームから出て来た彼女が言う。
「約束。ちゃんと入ってね」
その言葉に庵は大人しく従い、厚い胸板を晒したままバスルームへ入った。
庵が、彼女が着ている物と揃いのバスローブを着て温まった体をリビングに現した時、彼女は床に座って庵の脱ぎ捨てた服の破れ目を繕っていた。
台所の方からは良い匂いが漂っている。
「あ…今御飯温めてるから、もう少し待って。庵の好きなの作ったけど、食べられる?」
明るくそう言う彼女の姿を見て庵は形容し難い何かを感じ、そっと彼女の華奢な体を背後から抱きしめた。
突然の抱擁に、彼女は針を進める手を止める。
「…庵?」
シャンプーの匂いが香る彼女の半乾きの髪に頬を埋め、庵は独り言のように呟く。
「俺は…お前がいなくなったら、どうなるのだろうな…」
庵にしては珍しい感傷的な物言いに、彼女は動揺する事無く笑って答える。
「そうね。ろくな食事も取らないで、不健康な生活をしてそうだわ」
冗談めかした言い方に、庵の口元が微かに笑う。
「でも…」
庵の腕の中で彼女は体を反転させ、庵に正面から向き直る。そして黒い瞳でしっかりと庵を捕らえる。
「きっと変わらないわ。庵が変わるとするなら、それはあの人との決着が付いた時…。私では貴方を変える事は出来ないわ」
諦め にも似た穏やかな瞳。全てを内包し、理解した瞳。昔から何一つ変わっていない。初めて許婚と対面したあの春の午後から 。
庵の大きな手が、彼女の滑らかな白い頬に当てられる。うっとうしい物は嫌いだが、指に絡み付くその長い髪は不快ではなかった。
「お前は…俺には過ぎた女だ」
庵の手に己の手を重ね、彼女は目を伏せてゆるりと首を振る。
伏せられた睫毛の長さを、彼女の整った小さな顔を一頻り見てから、ゆっくりと庵は許婚の唇に自分の唇を重ねた。
雨の降り続ける音が小さく聞こえる中、それは神聖な儀式のようであった。
ねぇ、庵…憶えていて。
私、貴方の側にいられるだけで幸せなの…
闇の中で何かが蠢く。
『…八神 庵…』
『オロチ一族に温もりは必要無い 』
日差しの暖かい休日、街中の大きな公園の前で二人は待ち合わせをしていた。
庵はぴったりとした黒いシャツに、幅広のゆったりとしたグレーのパンツといった格好で、公園の石垣に腰を掛けていた。
交差点の向こうで、見覚えのある黒塗りのベンツが止まるのを見て、庵はゆっくりと腰を上げる。
運転手側のドアが開き、運転手が現れ後部のドアを開ける。
その中から白いワンピースを着た彼女が、周囲の目を恥ずかしそうに受けて姿を現した。
この仰々しい登場の仕方が嫌で、彼女はこの車を嫌っているのだが、両親は危険だからと言って公共の乗り物を使わせない。
学校の修学旅行などは流石の親も目を瞑っているが、徹底した箱入り娘振りである。
庵の姿を見つけた運転手が、うやうやしくお辞儀をする。それに庵は軽く頷く。
信号が青になるのを待って、交差点の横断歩道を彼女が駆けてくる。
久し振りのデートに、嬉しさが隠し切れないでいるのが遠目にも解る。
白いワンピースがひらひらと揺れるのを見ながら、庵はゆっくりと交差点側に移動する。
ふと、本能的に何かを感じた。
低いエンジン音。
猛スピードで交差点を曲がる、タイヤの不快な回転音。
人々の悲鳴。
アスファルトに刻み付けられるスリップ跡。
瞬間、庵は駆け出していた。
こちら側からあちら側へと向かう人々を押しのけ、走る。
四方の横断者が、横断歩道の四分の一まで程しか歩いていない時、走っていた彼女は既に交差点の中心にいた。
低い衝撃音。
宙を舞う白いサンダル。
放射状に広がる黒髪。
舞散る紅。
翻る白いドレス。
全て、一つ一つがスローモーションの様にゆっくりと、だが鮮やかに脳裏に焼き付けられる。
アスファルトの上を紫炎が走った。
ドドオォ…ン…
爆音。爆風。人々の悲鳴。
炎がガソリンに引火し、更なる爆発。
その炎と熱気を物ともせず、庵は大地に横たわる彼女に近付く。
動かない指先。
絹糸のような黒髪が、芸術的な形を路面に描いている。
白いドレスは鮮血によって真紅に侵食されて行く。
青い空を映す見開かれた大きな瞳を、そっと伏せる。
喘ぐように小さく開かれた唇の端から引かれた、赤い血の糸を指先で拭う。
そしてそのまま庵は彼女を抱き上げる。服が血で汚れるのを気にする様子はない。そんな事は念頭に無い様だ。
彼女の顔を自分の胸に埋める様にして、彼女を周囲の好奇の視線から守り、ゆっくりと歩き出す。
炎上する車を中心に、円を描いて集まっていた人々の視線を無視し、もう動かない妻となる筈だった女の亡骸をそっと運ぶ。
ゆっくりとした確実な歩調。
静かな目は、目の前の虚空を睨んでいる。
人々は無言で庵に道を開ける。
そこだけが沈黙に閉ざされていた。
葬儀の参列者達は、圧倒的な死の瞬間と赤い髪の青年の追悼に、物を言う事も忘れたかのように、悲劇の主人公たる二人を見守るしか術が無かった。
光を失った者の為に鳴く郭公(かっこう)の声が、交差点という閉ざされた空間に酷く響いた。
1996
THE KING OF FIGHTERS会場。
マチュアとバイスという名の女と共にエントリーする事になった庵は、
観客の歓声を遠くに聞きながら、照明の光量に去年の夏の太陽を思い出していた。
確かに何も変わらなかった。
流す涙も無く、あるのは漠然とした喪失感のみ。
庵の目は今も唯一人を追い求め、その戦いの衝動に体が嬉しい悲鳴を上げている。
彼女は庵が俗世に関わる、最後の要だったのかもしれない。
だから今の庵は自分を心配する者がいないせいか、思い残す所の無いすっきりとした表情で、己の熱情全てを草薙京に向けている。
居心地の良い場所へ道は断たれ、獣は解き放たれた。
この手に抱いた筈の温もりも、可憐な声音も、彼女の死と共に次第に色褪せていった。
一年経った今ではそれを思い出す事も難しい。儚い、春の夢の幻かもしれないと思うようにもなった。
ふとした時に思い出すのは、部屋に置きっぱなしのパキラの鉢と、パキラの様に変わる事無く帰りを迎えてくれた穏やかな瞳。
全ては、微かな春の残像。に考えた、初めての同人小説です。いじらないままなので、
至らない、腑に落ちない、事実と合わない(あまり詳細設定は知らないので)などの
苦情は御容赦下さいませ。
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