運命の名に集えし者達



 少女はただ茫然と立ち尽くしていた。

 目の前の現実を受け入れる事が出来ずに。

 彼女が生活してきた全てが、今目の前で灰燼(かいじん)に帰していた。

 「…………村が…………」

 よろよろと歩き出す。

 大規模な火事などの「事故」で、彼女の村がそうなったのではない事は確かであった。

 見るも無惨な家屋は、焼けただけではなく破壊されている物もある。何をどうすれば、丈夫に造られた家屋をここまで破壊出来るのだろうと思う程に、それらは完膚無きまでに破壊され尽くし、まるで昔から其処にあった廃墟の様に風に吹き荒(すさ)ばれていた。

また、「事故」ならば少なからず生存者がいてもいいものである。だが、生存者は皆無と言ってほぼ間違いなかった。村に生者がいる気配は感じられない。また、彼女が目にする知った顔ぶれは、凄惨な屍となってそこらに転がっていた。辺りを漂う死臭とせ返る程の血臭。

人為的な屍だ。

即ち、殺人。

だが、殺人と言ってもナイフで腹を刺された程度のものではない。駆け寄って脈を確認しようと思う状態の者は無かった。綺麗に原形を留めた遺体が一つとして無いのである。

無残に顔面を潰された者。腹から臓腑をぶち巻いている者。四肢が完全にあらぬ方向に折れ曲がっている者。壁の突起に胸を貫かれてぶら下がっている者。

挙げればきりが無い。

 嘔吐しそうになるのを堪えて、彼女は自らの家へと向かって駆け出していた。今だっている家屋から立ち上る煙が目に染みる。ごしごしと目をりながら、家族の無事を祈って少女は走った。

 通常(いつも)なら大した事の無い道のりが、やけに長く感じられた。


そして、彼女は生まれて初めて神に呪いの言葉を吐いた。

絶望。

 家は半壊していた。

彼女をこの歳まで引き取って育ててくれた、優しい義父と義母が無惨な姿と化していた。一目見て彼らが既に事切れているという事を、彼女は確かめなくても理解せざるを得なかった。

それでも、本当に死んでしまっているのか確認したい気持ちはある。駆け寄って、最早「人」の形をしていない体を揺さ振り、名を呼びたい。その衝動に突き動かされて足を一歩踏み出した瞬間、裏口の方から物音がし、彼女は涙で噎(む)せた声で叫ぶ。

 「ワイアット!?」

彼女にとって、最も大切な人物。自分を引き取ってくれた家族の一人息子で、兄の様に恋人の様にして側にいてくれた男。

優しくて、大人で、村の女の子にも憧れられていて、自慢の義兄だ。麦の穂の様な色の髪が風に揺れるのを見るのが、鮮やかな緑の草木と同じ色の瞳が優しく微笑むのを見るのが、何よりも大好きだった。大切だった。

ワイアット。

 彼はいた。

下半身を崩れた家屋の下敷きにして、虫の息の状態だが何とか息をしていた。だが、その顔色は真っ青を通り越して土気色にさしかかっている。彼の命が失われてしまうのは、時間の問題かと思われた。

血の気を失った唇が、微かに少女の名を呼ぶ。

「………マト…ウォーネ……」

 「ワイアット! ワイアット!」

少女は半狂乱になって彼の名を繰り返し叫び、その上にある瓦礫を退かそうとする。だがそれを、血の気のない手が弱々しく制する。最早、自分の死期を手で触れる事が出来る程に近く感じているワイアットには、もう既に「助かりたい」「助けて欲しい」という思いは無かった。

マトウォーネの手を渾身の力で擡(もた)げた手で制したまま、彼はもう片方の手に握っていた物を彼女に渡す。

 「何…これ…」

 渡された物を見て、少女は放心した声で呟く。

 それは、決して裕福ではないこの家にある筈の無い、美しい真紅の宝石だった。燃え盛る様な紅(あか)

 ワイアットは、最早焦点の合わない虚ろな目で少女の方を向き、切れ切れの不鮮明な声で最期の言葉を吐いた。やっとの事で、文章になっていない単語のみで構成された言葉を吐くのだが、その単語と単語の間の空白も酷く時間がかかった。

 「お前が…倒れていた時…持って……何か…手掛かり……俺の親戚…西…ウオルムス…行け…」

 それだけ言って、彼は帰らぬ人となった。

 それまで生きていたのが奇跡と思える程の重傷。まるで、何者かの意思によって、マトウォーネが其処へ到着するまで「生かされて」いたかの様に思われた。

少女が握っていたワイアットの手に、重みが増す。そしてするりと少女の手を抜け、小さく鈍い音を立てて床に落ちた。

柔らかい物をそっと握る様な形を留めたまま、動かなくなってしまった指を凝視し、マトウォーネは暫く沈黙した後震える声を絞り出す。

 「…ワイアット…?」

掠れた声が静寂に響く。

信じたくない。

 「いや…置いて行かないで…」

やがて、何一つ生きる物の無い小さな村で、少女の悲痛な、叫びにも近い号泣が響いた。



 どのくらい泣いていただろうか、ふと、ワイアットから受け取った真紅の宝珠が淡く光り出し、その光が彼女の心に吹き荒(すさ)ぶ修羅(かぜ)を癒した。溢れる涙を拭う事もせず、少女は手の中から優しい光を放ちつつフワリと浮き上がる宝珠を茫然と見る。その光にマトウォーネは、温かい、懐かしいとすら思える波動を感じた。

そしてそれはその輝きを一層増すと、放たれた矢の様に宙からマトウォーネの左の耳へと、紅い残像を描いて突き刺さった。痛みは無い。むしろ、何か不思議な力を得た様な感覚と、陶酔感があった。まだ微かに熱を持っている左耳に手を当てると、そこには小さな耳飾りがあった。側に破片となって落ちていた鏡で見てみると、何かの結晶の様な透明で美しい物が揺れている。

人工的なアクセサリーの様に、取り外し出来る様な部分は無い。完全に耳から取れない様になってしまっている。

その不思議な現象に気を取られていたのも僅かな間で、現実は重くどんよりと彼女の目の前に立ちはだかっていた。興味が逸れる。

今まで感じていた全ての物が、無意味、無彩色に感じられる。

どうでもいい。

何も考えたくない。何もしたくない。

絶望の谷。体の中に何か黒い物が溜まって、ひしひしと満ちてゆくのが感じられた。

どうしてこんな事に…。

何故自分だけが…。

考えればきりが無かった。また、考えても仕方が無かった。

今までの生活の中で何処にも、この様な結末を迎える原因となるものは無かったのだから。

本当にささやかな生活だった。この大陸の地図でも、北の端の方に本当に小さく記されている岬があり、その近くにある村だった。村の名前は地方版の地図でないと記される事はまず無い。辺りは深い森に囲まれ、隣の村に行くにも峠を越して行かなければならない。人が生活しているのも不思議な位の、辺境の地だった。

村の者は皆顔見知りで、ちょっとした小競り合いは時々あるものの、争いや犯罪といったものとは無縁の平和でのどかな村だった。

なのに       

どうして。

どうして。

今まで感じた事の無い感情。

凄まじい悲しみ、絶望、怒り、孤独。

そして、無力感。


死んでしまいたい         



§§§

赤黒い不吉な残光が、そこに住む人々を失った村を照らし、開けた土地に夥しい十字架の影を落とした。

数日をかけて、マトウォーネはその華奢な体を酷使して死んでしまった村人全員を丁重に葬った。

周り全てが、身動き一つしない屍ばかりだからであろうか、彼女の神経は既に麻痺しており、顔を背けたくなる無惨な死体やそれらが発する腐臭を気に留める事も無く、魂の抜けた様な表情で黙々と彼らを埋葬していった。まるで、その一連の動きを組み込まれた仕掛け人形の様であった。

かつて親しくしていた者達の変わり果てた姿、肉を引き摺って移動させ、墓地とする場所まで運ぶ。家から持ち出したシャベルを使って穴を掘り、人一人を埋葬出来るまでの深さと大きさになるまで掘り続け、埋葬する。

小さな子供の屍を抱えて歩きながら思う。

ついこの間だっこした時よりも、確実に重い。

人は、これ程までに重い「もの」だったのか。これ程までにぐんにゃりとした「もの」だったのか。肌が緑色になる事があるのか。

静脈が浮き出て肌に網目を作っている肌をそっと撫で、ぶよぶよとした肉になってしまった腕を掴んで胸の上で祈りの形に手を組ませる。そして土を掛ける。

それを、村人の数だけ繰り返した。

何日かかったのか判らない。

夜があったのか、時間が過ぎているのか、自分が呼吸しているのか、何もかも判らない。

だが、ただ一つだけは判る。

自分は生きている。皆は死んでしまった。

そして、最後に腐食の激しいワイアットの変わり果てた体を葬る。愛しく髪を撫で、整えてやる。

ああ。彼の寝顔はこんな顔だっただろうか。

違う。

彼の墓の上に、彼が大好きだった花を沢山植えたら、この喉が上下に動き、またあの心地良い声を聞かせてくれるだろうか。

有り得ない。

ワイアット。

だいすきなあなた。

泥水の水溜まりの様に、濁って焦点のはっきりしない目から、透明な雫が流れた。

それが涙だと認識しない内に、感情が液化したものは次々と流れて来る。止められない。泣きたくはないのに。泣いたらこの現実を受け入れてしまう。駄目。泣かない。泣かない。泣かない。

仕留められた獣が上げる、甲高い断末魔の悲鳴の様な音が無人の村の空気を震わせ、天を突いた。

すべて。

とにかく、すべてで泣いた。

泣いていた。

口が裂ける程に大きく開け、目は涙で見えなくなってしまっている。喉には熱い塊が小さく鼓動を打ちながら留まり、手足は強張っていう事を聞かない。

泣く、というよりは狂った様に悲鳴を上げ、喚き続け、百年もそれを続けたかと思える程してから、号泣はまだ続いているというのに、決して終らないというのに、マトウォーネは疲労と空腹の為に倒れた。

意識を失う瞬間、このまま死ぬ事が出来ればと切に願った。



 夢を、見た。

絶望と恐怖・不安、悲しみが入り交じった、凄まじい夢であった。

彼女の目が見た光景と、彼女一人が生き残ってしまったという事実。それを死んでしまった大切な人達に対して、申し訳ないと思った気持ちからであろうか。

夢の中に出てきた惨(むご)い姿の村人達は、誰一人一言も口を利かずに、マトウォーネを絶望と苦しみに満ちた目で、ひたと見詰めていた。

周囲は火事だ。業火が揺らめき、死人達の影が狂った様に躍る。

そして、彼女はザクザクと何時までも土を掘り続けているのだ。彼らが見詰める中で、彼らの為の墓を。

ザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザクザク

ぐにゃり。

スコップの先が、何か生柔らかいものに当たる。スコップを手放し、素手で土を掘り始める。「いけない」と思う心に手が従う事はなく、運命られている様に手は黒い土を掘り続ける。

そして、現れたのは見開かれた目。土気色の肌。

            ワイアット!!!!!!!」

 

死の深淵を垣間見た様な夢から、絶叫を上げて現実へと戻ると、少女は森の中にいた。火の爆ぜる音。森に生きる小さな者達の息遣いが聞こえた。己の状況を顧みると、何者かによって温かな毛布にくるまれて寝かされていた。

とても、とても久し振りに体の感覚が正常に機能している、と感じた。

村人達を埋葬している時は、生きているのか死んでいるのか分からなかった。土を掘り続けて、手の肉刺(まめ)が潰れて血まみれなっても「痛い」とか「疲れた」など微塵も感じなかった。ただ、黙々と何も考えずに作業をしていたのだ。

風の音も、自分のあがった息も聞こえなかった。土の匂いも憶えていないし、唇を濡らした汗の味も覚えていない。

だが今は、深い眠りから覚めた所為だろうか、非常にはっきりとした意識の中で、森の中の土の匂いや獣達の息遣い、しめやかな草を踏み鳴らす小さな動物の足音も聞こえる。

そして思う。

             生きている。

 「…大丈夫かい?」

 聞き覚えの無い男の声がし、マトウォーネはぎょっとして声が聞こえた方向を向く。

森の暗がり、夜の闇に溶け込んでしまいそうな色のマントで、全身をすっぽりと覆った男がいた。揺らめく焚き火の照明にも、その男がどんな容貌をしているのかを伺い知る事は出来ない。一目見て「怪しい」男であったが、マトウォーネは男の声音を聞いて彼に対する警戒心を僅かに解いた。「悪い人ではなさそうだ」という直感だ。

「ただの直感」で人を判断して生きていけば、恐らくこの世の中では数日も生きていけないだろう。だが、マトゥオーネの直感は特別だ。

まず彼女は精霊に愛されている。「可視」の魔法を使わなくても常に森羅万象を司る精霊達を(彼らが望めば)見る事が出来るし、感じ、対話する事が出来る。だから、大抵の物事については精霊達が教えてくれるのだ。

また、森羅万象を司る精霊達の他にも、人それぞれを守護する精霊がいる。その精霊を「見る」事によって、その人の人柄などが分かってしまう。人と関わらない様にしている人などは見えにくくなっているので、そういう場合は別に合えて見る事はしない。他人のプライヴェートだからだ。

それら全ての情報源から、マトウォーネの直感は目の前にいる謎の男を「大丈夫」と判断した。

自分の安否を気遣ってくれている男の言葉に対して、おずおずと頷く事は出来たものの、自分がどうしてこんな場所でこうしているのか、という事に対する説明を彼に要求したり、世話になったであろう事に対して礼を言うまでには、マトウォーネの思考は回復していなかった。

ただ、混乱している。

彼女が理解しているのは、自分が生きているという実感と、自分が森にいるという事。目の前に男が居るという事。それだけだ。

 何も言おうとしないマトウォーネに、男はおずおずと言う。

 「その…君の村だったのかい? あんなに沢山の墓を一人で…大変だったろうに…」

 気を遣って慰めの言葉を発する男の台詞を聞いて、そこで初めてマトウォーネは自分が暮らしていた村に起きた惨劇、大切な人々に起こった不幸を一気に思い出した。

 夢、ではなかった。

 現実。

暫く、夢ではなかったという厳しい現実にマトウォーネは茫然としていたが、やがて小さな呻きを上げた。

「…う…」

泣くまいと必死に食いしばった歯の間から、嗚咽(おえつ)が漏れる。くしゃりと、少女の整った顔が歪む。薄い胸が苦しそうに上下する。泣き声を上手く出す事が出来ず、喉から引き攣れた風が鳴る。

喉の奥が痛い。

 怒濤の様に押し寄せる少女の悲しみ、苦悩、絶望を感じ、男は優しい声で言った。それしか彼には出来なかった。

 「泣いていいんだよ…泣きなさい」

 優しく低い男の声に、マトウォーネはワイアットを思い出す。昨日まで、当たり前の様に側にいた存在。今日の朝、隣り村へ遣いに行くマトウォーネを笑って見送った、最後の笑顔。

 堪えきれずにマトウォーネは声を上げて泣いた。

 次から次へと、涙が溢れてくる。

 泣いたからといって何も解決する訳ではない。死んだ者は蘇らない。壊れた家屋は戻らない。これから生活してゆく場所を得る事が出来る訳でもない。

 だが、理屈では分かっていても、感情がそれについてゆかなかった。今は、泣く事しか出来なかった。他には何も考えられない。

 あらん限りの声を上げて泣くマトウォーネを、男はそっと抱き寄せて華奢な背中を優しくさすり続けた。男の広い肩に縋(すが)り付き、いいだけ泣いたマトウォーネは、そのまま泣き疲れて再び眠ってしまった。

元から発育不良とも言える体つきだというのに、事件のショックや数日間飲まず食わずで作業をしていた為に、マトウォーネは酷くやつれていた。

病床にでも着いているかの様なその寝顔を見て、男は自分の第一声が余りにも軽率だった事を深く後悔した。



 翌朝、小鳥の囀りを耳にしてマトウォーネは目覚めた。

 良い匂いがする。

 ここ何日も、何も口にしていなかった。食べる事すら忘れていたのだ。今、良い匂いを嗅いで少女は自分が物凄く空腹であった事を、やっと思い出した。

 もそりと起きあがると、簡易鍋を熱している火に小枝を放り込んで火を調節していた男が、「おはよう」と声を掛けた。

 「…おはよう…ございます…」

 それにマトウォーネはを憔悴隠しきれない表情のまま、掠れた声で挨拶を返した。湿気が多い為に森の中は寒い。薄着しか身に着けていないマトウォーネはぶるりと震えると、そのまま毛布を肩に掛けて座り直す。

 「…食欲、無いと思うけど…食べないと体に悪いから…」

 遠慮勝ちに男が言い、鍋から具が沢山入ったスープを器に盛るとマトウォーネに手渡す。

 空腹を感じたものの、やはり食べるという気分ではなかったマトウォーネだが、折角自分を気遣ってくれた男の手前、形だけでもと思い、口を付ける。だが、あまりに空腹だった所為か、一口食べると一気に胃が活動を始め、次々にスプーンを口に運んだ。

 それを男は安堵して見守っていた。

少女を拾って抱きかかえた時、少女のあまりの軽さと細さに驚愕したからだ。身長の割に不健康な程に肉が付いていない。その理由を、少女が今目の前で食事をとっている姿を見て知る事が出来た。

肉を食べていないのだ。菜食主義。道理で、折れそうな体をしているのにも納得が行く。栄養の事を考えて、肉を食べる事を勧めたい気持ちもあるが、自分のごく近しい者の、変わり果てた姿を目の当たりにした者にそれは酷だ。それについては黙っている事にした。

少女は一心不乱にスプーンを小さな口に運んでいる。

食べている時だけは、流石に凄惨な事件を一時だけでも忘れられているのだろうか。その目は確かに現実の、目の前にある物を認識している。

 

 「…何があったか話せるかい?」

 スープを食べ終え、一息吐いて茶をちびちびと啜(すす)っているマトウォーネに、男はゆっくりと切り出した。少女の様子も大分落ち着いた様だし、あの無惨な廃墟になってしまった村の事を聞かなければならない。

 燃える火を見詰めながら、マトウォーネは暫く黙っていたが、ややあってぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。

 「…私、昨日…いいえ…あの……お師匠様に言われて峠を越えた隣の村に、お遣いに行っていたんです…。予定より遅くなってしまったので、精霊に頼んで一晩泊まってくる事を伝えて…、今日…ああ、今日じゃないんですよね…村に帰ろうとしたら…峠から煙が一杯見えて…。やっと村に着いたら…………村の人が皆、一人残さず…殺されていました…」

 ぼんやりとした口調で苦しげに言葉を発するマトウォーネ。夢の内容を話している様な、ふわふわとした言葉を男はじっと聞いていた。

 村中の人間の墓を作り終えるところで、不鮮明に言葉が途切れる。それは語り終えたという終わり方ではなく、話している途中で急に言葉を忘れてしまったかの様に、ふつりと切れてしまった。

暗く濁ったマトウォーネのオッド・アイ。

左右の目の色が異なっている、不思議な目だ。

右目は金の瞳。

左目は炎の色。

平時(いつも)なら、その美しい瞳に優しい光を湛えているのに、今の彼女の目はどんよりとして、光を失っていた。黄泉の国の、忘却の川の水の様に何処までも暗く淀んだ瞳。生という光を失ってしまった瞳。

 途切れてしまった言葉から沈黙が続いていた。男はマトウォーネが再び話し始めるのを待っていたが、それが叶わないのを察すると、自分から切り出した。

 「…ああ、自己紹介がまだだったな。俺は…シエラ。別にあても無く諸国を放浪して回ってる傭兵だ」

 シエラと名乗った男の言葉に、マトウォーネはぼんやりとした眼を向ける。何の感情も読みとれない。唇が微かに動き、「そうですか…」と呟いていた。だが、人として名乗られた以上自分の名も名乗り返さないといけない。ほとんど無意識にマトウォーネは生気の感じられない言葉を返す。

 「…私は…マトウォーネと言います…。助けて戴いて…どうも有難うございました…」

 反応を示したマトウォーネを微かに頷いたシエラは、前屈みになると両肘を膝につけ、組んだ手を顎に当てる。

 「早速だけどマトウォーネ。君はこれからどうするつもりなんだい? 俺としても君を助けたのはいいが、このままずっと一緒にいる事も出来ない。君としてもこれからの身の振り方を考えた方が、現実的なのでは…と思うんだがね」

 シエラの言葉に、マトウォーネは独白する様に答える。

 「西へ…西へ行けと言われました。ウオルムスに親戚がいるから、と」

 「…そうか」

 溜息と共にシエラは言葉を吐き出し、乾いた小枝を焚き火の中に放り込む。パチリと音をたてて、枝は赤い火の舌に絡め取られた。

 「…送ってあげようか? どうせあてのない旅だし…女の子が一人じゃあ大変だろう」

マトウォーネの瞳に次第に正常な光が戻りつつあった。話し掛けてくる相手がいるので、耳に入ってくる言葉について自然と頭が考える事を再開している。もし、シエラがこの辺境の地を気まぐれで通りかからなかったら、マトウォーネはこの先一生心を失ってしまったままだったかもしれない。

シエラの優しい申し出を、マトウォーネは少し思案してから辞退する。

 「…お気持ちは嬉しいのですが…こんなにお世話をかけてしまって…悪いです。それに……私、皆を置いて行きたくないんです…」

 力のない笑みを浮かべ、ゆるりと頭(こうべ)を振る。

 ジャリ…

 シエラが脚を伸ばし、砂地が小さな音をたてる。座り直すと、シエラは言い含める様にマトウォーネに言葉を掛ける。

「……気持ちは分かる…。でも、現実問題としてそれはかなり厳しいんじゃないか? 畑の世話をして自分が食べる分だけの物を栽培するには問題はないとしよう。でも、何かの事故があった時にはどうする?誰も君を助けてくれる人は居ないんだ。病気になっても誰も看病してくれない。下手をすれば、倒れたまま死ぬかもしれない。

……………君は死を望んでいるのかもしれない。大切な人が亡くなって、他の村の人達も皆亡くなって、自分の世界はこれで終わりだと思っているのかもしれない。でも、君がここで亡くなった人達の墓守をして、いずれ誰にも知られずに死んで行くのを彼らは望むだろうか?」

「……………………」

そこまで言われて、マトウォーネの貌が歪む。

シエラの言う事は正論だ。でも、自分は愛する人達を失って生きていける程強いだろうか?

「……君が辛いのは良く分かる。俺も大切な人を多く失った。…いや、君と俺は違う存在だから、その『痛み』も別なものの筈だ。『分かる』というのは軽率な言葉だったな…。

…生きる事は確かに辛い。死んで楽になりたいと思ったのも一度や二度では済まない。それでも、生きてきたからこそ新しく大切な人が出来た。…失った人を忘れる訳じゃない。自分が心の中にその人を留めておけば、完全にその人を失くした訳じゃないと、俺は思っている。

ここの村の人達が死後どの様に思っているかは、俺の推測に過ぎないが…。軽率な言葉かもしれないが、少なくとも俺は君にそうなって欲しくはないと思っている」

シエラが、己の傷を見せてマトゥオーネを励ましてくれている。「生きろ」と言ってくれている。

自分一人の状態でこの様な状況下に置かれては、「生きよう」とはなかなか思えない。が、自分が生きる事を望んでくれている人がいるならば、頑張って生きてみようと思う。

「……………出来ますか……? 新しい…大切な人……」

涙で潤んだ目が、シエラのフードで隠された顔を凝視する。

「出来る」

しっかりと、彼は言いきった。

やや暫くして、マトゥオーネは小さく頷く。

「……ウオルムスまでの同行…お願いしてもいいんですか…?」

ぽそりと尋ねられた言葉に、シエラは大きく頷いた。深いフードの奥から見える、形のいい唇が穏やかな微笑の形をとった。

昼近くまで、その場でぽつりぽつりと会話をしながら過ごし、その日の内にここを離れる事を話し合った。

マトゥオーネは、通常の感覚が戻ってからシエラという男を再び観察してみたが、やはり人に容姿を見られるのを嫌っているのか恐れているのか、目深に被ったフードの下にある顔を見せてくれる素振りはなかった。全身をすっぽりと覆ったマントにしても同様で、その下にどんな服を着ているのか、肌の色や体型もあまり良く分からない。

ただ、背は本当に高い。並んで立つと彼の腰より少し上あたり位にしか、マトウォーネの頭は届かない。これ程背の高い男というのもそうそう居ないだろう。かと言って重量級の体型でもない。

フードから覗く髪。光に当たると金色に輝く黄緑色の不思議な髪を見て、マトゥオーネは風にそよぐ光の川を思い浮かべていた。

陽が中天に差し掛かった頃、シエラは小さなキャンプを畳み始めた。その作業をしながら、やった事もない仕事を手伝う事も出来ずに立ち尽くしているマトウォーネに問う。

「旅に必要な物は大抵あるが、何か持って行きたいものとかは? 着替えも必要そうだし…ここからならまだ村に近いから、取りに戻れるが…」

そう言われて、ぎくりと体を強張らせる。

正直、戻りたくはなかった。

戻れば、嫌がおうでも現実を見せ付けられる事になる。これ以上辛い思いはしたくなかった。

だが、これからウオルムスまで旅をするのに、今来ている泥だらけの薄衣一枚では過ごせまい。下衣の替えも勿論必要になる。それに、もう当分ここには戻って来る事はないだろうから、形見の品も何かあったら持って行きたいと思った。この地に置き去りにしてしまう皆に、お別れを告げる事も必要だと思った。

辛い顔をしながら、ゆっくりと頷く。

「…そう…ですね…。…戻ります」

シエラはマトウォーネの苦渋の選択を分かったのか、彼女を気遣う様子で一つ頷き、残りの荷物を荷袋に仕舞い込む。そして、すっかり準備が出来てしまうと、近くの木の枝に繋いであった栗毛の馬を連れて来た。

馬の優しく穏やかな眼を見て、初めてマトウォーネは笑顔を見せた。そっと近付くと、その長い鼻面を優しく撫でてやる。馬の方も一目でマトウォーネを気に入ったらしく、嬉しそうに鼻を鳴らして顔を摺り寄せた。

「行こうか」

マトウォーネの心が少し平安を得たのを見てシエラは口元を綻ばせ、彼女に声を掛けるとその細腰を支えて馬に乗せる。そしてその背に自分も腰を据えた。

そして二人は、一日で廃虚と化してしまったアルスに再び向った。



 

半時程、馬を歩かせると森の風景の中にも見覚えのある場所に辿り着いた。このまま行けば、村の東側に着く。丁度、いつも野菜を分けてくれていた気のいいおばさんの菜園の近くだ。彼女は大事に世話をしていた菜園の中で、体を二つに千切られて死んでいた。

「………………」

そして、心の準備がまだしきれていない内に、二人は村へ着いてしまった。心が揺れる。どうしようもない混乱と哀しみ。

自然と眼が普段皆が生活していた場所に動いてしまう。友達が寄り掛かって壊してしまった裏木戸。秘密の手紙を交換し合った場所。子供の頃、ガキ大将だった子が基地として使っていた古い物置。

辛い想い出を引きずり出すだけだと思い、それらから眼を逸らす。だが、何処を見ても十一年間の想い出が詰まった場所だった。

スカートをぎゅっと握り締め、肩を震わせる。泣くまいと食いしばった歯の間から、小さな呻きが漏れる。

村の中心にある小さな広場にさしかかり、マトウォーネは馬から下りた。そこからかつての我が家までは後少しだ。気を抜けば立ち尽くして放心してしまいそうになるのを恐れるかの様に、マトウォーネは歩き慣れた小道を足早に歩いた。

他の家から少し離れた場所に、我が家はあった。家は半壊していたが、不思議な事に半分は綺麗に原形を留めていた。そして幸運にも、マトウォーネが使っていた部屋はそちら側にあった。

どう考えても不思議な話で、目に見えない何者かの力が彼女の運命を促しているかの様に見える。不思議というよりも、あまりに不自然な…人為的な見えない力の存在をどうしても考えてしまう。

だが、考えても仕方の無い事を考えるのは止めにした。

仮にそれが人為的に作られた運命なのだとしたら、恐らく自分は怒りと憎しみのあまり気が狂ってしまうだろう。そして、この様な運命を下した神を金輪際信じる事は出来なくなってしまう。

ワイアットを初めとして、彼女の義両親はとても信心深かった。毎日の生活を神様の下さった恵みだとして、大切に生きていた。そんな彼らが哀しむ事はしたくない。

古びた箪笥(たんす)の引き出しを開け、必要な着替えや下衣、小物などを皮袋に詰め込む。一つ一つを感傷に浸りながら詰めていては時間がかかるし、また悪循環になる。なるべく何も考えない様に努めながらマトウォーネは手早く作業をした。

必要な物を詰めた皮袋を背負い、泥だらけの服を着替えてマントを羽織ると、今度は形見として持って行く物を物色し始める。だが、色々考えあぐねた結果、何も持って行かない事にした。

想い出の詰まったこの家から、もうこれ以上何も損なわせたくなかった。それに、自分にはワイアットが最期の時に渡してくれた不思議な宝石がある。今は形を変えて耳に下がっているそれを手で触れて確認し、マトウォーネは「行ってきます」と挨拶をして家を出た。そして、一度も振り返らなかった。


村の西側は、生活に必要な材木を切っていたので開けた土地になってる。小規模ながらも村の催し物などは、そこで行われていた。今はそこは墓地となっている。マトウォーネが一人で作り上げたものだ。

大工をしていた老人の家の脇にあった木材を使い、村の人数分の十字架を作った。彫り物はあまり得意ではないマトウォーネだが、いびつな文字ながらも、それらに一人一人の名を丁寧に刻んだ。墓を一つ作る毎に、盛られた土の上に十字架を置き、全てを作り終えた後に全ての十字架を立てた。

一つ立てる度にその十字架に刻まれている名を、肺から空気を絞り出す様に呟いた。整然と林立している十字架の一つ一つに、重い人生が埋まっているのを知っているのは、最早マトゥオーネ一人だけだ。

今マトウォーネはそれら一つ一つの前に座り込み、一人一人に別れの言葉を告げた。シエラから村に戻るか選択を問われた時、「戻りたくない」と思った自分を恥じた。最期にワイアットの墓前に立ち、暫く黙って立っていた。ワイアットに対して掛けるべき言葉が多過ぎて、何一つ言う事が出来なかった。

想い出が大きすぎる。愛情が深すぎる。存在が大きすぎる。

とても、彼に言うべき言葉をまとめる事など出来なかった。

長々と言うのを諦めると、たった一言「今まで有難う。行ってきます」とだけ言った。そして、祭の日に揃いで買った指輪をワイアットの名が刻まれた十字架のすぐ下に埋めた。ワイアットが淋しくならない様に。遠く離れていても自分の一部は確かにここにあるのだと、自分に言い聞かせる様に。

随分長い時間を掛けてから、マトウォーネは離れた場所で待っていてくれたシエラの元に戻った。その頃には、泣き崩れて随分と酷い顔になっていた。

「…待っていて下さって有難うございました」

そう言ったマトウォーネの声はとても酷い鼻声だったが、だがしっかりとした声であった。「別れ」は完全に終わった様だ。

「…行こう」

折角のマトウォーネの決心を無駄にしない様に、シエラは潔くそう言うと彼女を馬に乗せた。

村を横切り、村の西側にある山を迂回して西にあるウオルムスを目指す。遠くなって行く故郷を振り返る事をせず、マトウォーネは真っ直ぐ前を見詰めたまま心の中でもう一度別れを告げ、最後の涙を流した。



マトウォーネは、自分が身を寄せる場所としてたった一つの希望であるウオルムスを目指しながら、道中シエラに様々な事を学んだ。シエラはマトウォーネが感じた通り良い人で、彼に対して身の危険を感じる様な事は何もなかった。

ただ一つ気になる事と言えば、彼がいつまでたってもその顔を見せようとしてくれない事。彼自身の事を何一つ話そうとしない事であった。だが、聡(さと)いマトウォーネはそこには触れなかった。

例えシエラが何らかの形で世間から追われる身なのだとしても、この男は自分の恩人だ。それは彼女の中では変え様の無い事実だ。

外見は依然として判断材料が無い。が、物凄い長身である事と、あの不思議で美しい髪の色。もし、自分がいつかシエラに恩返しが出来る状態になれたら、この二つの点で何としてでも彼を探し出してそれを成し遂げよう。そう心に誓っていた。

命の恩人というだけではない。マトウォーネの心も救ってくれた。道中、あまり饒舌な方ではないが時折気の利いた言葉でマトウォーネを笑わせてくれた。

つい数日前に何もかも、全てを失ってしまった筈なのに、こうして笑っている自分に気付き罪悪を感じる事もある。「自分は何を笑っているのか」と。が、シエラはそれでいいと言ってくれる。自分の心と向き合い、和解したり対立したりしながら、そうやって強くなっていけるから、と。

決して、失ってしまった大切な人を忘れて笑っているのではない。陳腐で月並みな言葉かもしれないが、失ってしまった人達の分も精一杯生きる為にも、マトウォーネには笑って欲しいとシエラは言ってくれた。

また、辺境育ちで外の世界の常識をあまりにも知らないマトウォーネに、「お金」を使う経済についてや、街の物騒な場所や怪しい人物の見当の付け方(偏見かもしれないが、用心するに越した事はない)など、これからマトウォーネがウオルムスで生活していく事を想定して、様々な事を教えてくれた。

それらを学ぶ事によっても、マトウォーネは新しい知識を得ると共に悲しい想い出を思い返す時間を短くする事が出来た。

感謝してもしきれない。

世の中こんないい人がいるというのに、同時にあんな悪辣で非道な事を平気で出来る者がいるのだから、分からない。

シエラに対する信頼と感謝を深めながら、ウオルムスまでの道中は思っていたよりも順調に進んだ。

 

§§§

そしてアルム崩壊から二十日と少し経った頃、マトウォーネは茜に染まるウオルムスを緩やかな丘陵から眼下に眺望していた。初めてみる巨大な『街』というもの。そして、その後方に果てしなく続く『海』というもの。それらをマトウォーネは暫く呆けて見ていた。

全く知らない世界に感動とか不安を覚える前に、ただ茫然としていた。

 「俺が送ってやれるのはここまでだ。ここから一人で行けるか?」

 シエラにそう言われてマトウォーネは我に返り、背の高い男に多大な感謝を込めて深々と頭を下げる。

 「本当に有り難うございました。本当に…なんてお礼を言ったら良いのか…私、何もお礼出来なくて…」

 絶望から救われ、なんとか笑顔を取り戻し、少しずつでも前を向いて歩く事を、シエラといる事によって自然と教わったマトウォーネが恐縮する。彼といる間、与えられてばかりで何一つとして彼にその礼をする事が出来なかったのが歯痒(はがゆ)かった。

そんなマトウォーネの気持ちを汲んでか、シエラはいつか会った時に彼が困っていたら助けてくれと、苦笑しながら言った。そんな些細な約束にさえ、マトウォーネはシエラの優しさを感じて感謝しながら「勿論」と大きく頷いた。

「以前にも言ったが、俺を信じたみたいに簡単に他人を信じるんじゃないぞ。世の中善人ばかりじゃないからな」

最後にもう一度忠告をしてから、シエラは馬に跨りマトウォーネに手を振ってウオルムスから遠ざかって行った。夕陽も丘陵の陰に沈もうとし、残光が辺りを赤黒く照らす中、小さなシルエットになってしまったシエラを、マトウォーネはその眼が捕らえる事の出来る限り見送っていた。

 そしてマトウォーネはたった一人の味方と別れ、単身見知らぬ世界へと歩んで行く。街もまた、魔物が徘徊する外地とは違った恐ろしさがある。シエラから教わった事を頭で反芻しながら、マトウォーネは気を引き締めてウオルムスへと足を踏み入れた。



 初めて見る人の渦、それらが生み出す喧噪、店に陳列されている見た事もない品々。思わず棒立ちになってしまうマトウォーネだったが、何とかシエラに教えられた条件に合う宿を探して、最早西も東も解らなくなってしまった街中を歩く。

 シエラはマトウォーネの様な女性の一人旅なら、少し料金が高くても治安重視の宿を勧めた。仲間がいたり、男の一人旅なら多少治安が悪くても滅多な事はないが、女性の一人旅には様々な危険が伴う。それがどの様な意味での危険かは、シエラは解っていないであろうマトウォーネに敢えて言う事はしなかった。

 アルムから持って来た着替えや、シエラから分けて貰った旅の用具が入った荷袋を手で触り、その上から彼に貸してもらった路銀を確かめる。かなりの額を貰って慌てて返そうとしたが、シエラは自分は魔物を退治したりで必要な時に必要なだけ、いつでも金を工面出来るから…と言って半ば強引にマトウォーネにそれを持たせた。

 大通りから離れた静かな、だがそれなりに人の通るあたりでマトウォーネは宿を見つけ、そこに決めた。幸いすぐ近くに警視所がある。小さいが質素で清潔な印象の宿だった。人の良さそうな主に料金を前払いし、マトウォーネはどっと出た疲れに抗いきれずにすぐに深い眠りに就いた。



 何時間眠っただろうか、マトウォーネは異様な気配に目を覚ました。

 ゆっくりと体を起こす。集中して熟睡した為に、疲れは大分取れていた。気怠い体を引きずる様にして、異様な気配の元である外の様子を見る。

 窓を開けると、周囲の民家は深夜だというのに煌々(こうこう)と照明(あかり)がき、通りは何やら荷物を持った人々でごったがえっていた。明ら様に、何かがあったとしか考えられない。急いで髪を梳(と)かして鏡を見、寝惚けた顔をしていないかチェックすると、階下に降りて主に事の次第を尋ねに行った。

 「…どうかしたんですか?」

 カウンターで慌ただしく金を袋に詰めていた主に、マトウォーネは不安を隠しきれない声でそう問う。カウンターの奥で女将がいそいそと荷物をまとめているのが見えた。

 「ノッティンガムの戦乱の飛び火が、どうやらこっちまで来たらしい。お嬢ちゃんも早くここを離れた方がいい」

 主はそう言うと、宿の記帳を荒々しくめくってマトウォーネに、彼女が払った料金から一日分を引いて返してくれた。

 ノッティンガムの戦乱の事は、シエラからも聞いていた。

 このガルダ大陸の五大王家の一つ、ノッティンガム王国の現国王が突然人が変わったかの様に乱暴狼藉を働き、国民や臣下を苦しめているという。それまで何代にも渡って、固い友好関係を築いてきた他の国にも攻め入らんばかりの凶暴性と、ノッティンガムからの亡命者達からの要求によって、今その乱心王を捕らえる為の戦いが繰り広げられいるという事だった。

 マトウォーネの体に戦慄が走る。戦などとは程遠い生活をしてきた彼女は、それが現実にどういうものかは解らなかったが、人と人が殺し合う悲劇を嘆いた。だが、こうもしていられない。ウオルムスに来た理由は、ワイアットの親戚を捜すのが目的なのだ。このごたごたで見失ってしまっては困る。

 「でも私、ここで人を探さないとならないんです」

 困った顔でそう言うマトウォーネを、主は気の毒そうな顔をして言葉を返す。

 「そいつは不可能だよ。ただでさえここは広いのに、こんな騒ぎになっちまえば何処にいるかなんて解る筈も無い。諦めて逃げた方がいいぞ」

 そう言いながらも自分の支度で忙しそうな主に、マトウォーネは彼の言う事も一理あると思い、一つ礼をして小走りに部屋へ戻ると荷物を取り、宿を出た。

 通りは恐慌状態の人で溢れ返っていた。飛び交う悲鳴、怒号、泣き叫ぶ子供達。それらの強い感情がマトウォーネの感じやすい心にどっと入り込んできて、彼女が苦しそうに胸を押さえた。

 「大丈夫かい?」

 ふと、旅の戦士らしい女性がマトウォーネに声を掛ける。

 「あ…はい」

 こんな状況のの中でも、通りすがりの小娘の心配をしてくれる女性に驚きと感謝を込めて、マトウォーネはそっと微笑んで頷く。女戦士は少女の格好を一瞥(いちべつ)して、彼女が旅の者だと判断する。

 「仲間はいないのかい?」

 「はい…一人です」

 その答えに、女戦士は一つ息を吐くと後方に控えていた彼女の仲間らしい男達を振り返る。

 「取り敢えずは避難する人の流れに沿って行く事だな」

 仲間の一人が言った。

 「そうだね…私達はこれから戦のある方に行くつもりだから」

 女戦士も頷く。暗がりの中でも少女の美貌が輪郭で解る。華奢な美少女を放ってはおけないが、つきっきりという訳にもいかない。

 「大丈夫です、有り難うございます」

 マトウォーネは微笑むとペコリと礼をする。頭を覆うショールの隙間から、艶やかな黒髪が滑る。だがその異様な色を、彼らは騒乱の陰影と周囲の喧噪に誤魔化されて、気付く事はなかった。

 彼らと別れると、マトウォーネは避難する人々に流される様にしてウオルムスを出て、ゆく当ても無くとぼとぼと足の向くまま歩き始めた。

 一日にも満たない滞在であった。



§§§



 ウオルムスを出て数日が経ち、どうして良いのか分からずにとにかく歩き続けていたマトウォーネは、知らずに戦場であったノッティンガム領に迷い込んでいた。

 歩いている内に風に乗って微かに異質な臭いがしていた。その正体を知るべく歩き続けていると、次第に足元に戦士の屍が転がっている死地に来てしまっている事が解った。

 荒野にも似た、標(しるべ)の無い焼け野原だ。戻ろうにも来た方向が判らなかった。マトウォーネはふらふらと歩き続ける。自然と、戦場であったその場所が、故郷のそれとだぶる。

 涙が出た。

 誰もいない。死が満ちている。気が狂いそうだった。

 何故、人は死ぬのだろう。

 何故、人が人を殺さなければならないのだろう。

 勿論、答える者はない。



 それから何日歩き続けたであろうか。ほとんど睡眠も食事も摂らず、マトウォーネはただ歩いていた。

足元の動かぬ肉も、その数を増やしていた。

戦場であった場所に好んで向っているつもりは無い。だが、引き返すには気が付けば周りは方角の分からない荒野だし、今更歩く方向を変えるのも何だか億劫だった。

 ふと、足元から小さな呻きを耳にする。

 「っ!?」

 はっと足元を見ると、マトウォーネと同じくらいの歳の少年が大きな怪我を負って倒れていた。無意識の内に微かな声を出している。生と死の狭を彷徨(さまよ)っている悪夢を見ているのだろうか。

 脇腹と太腿を大きく損なっている傷口には、蝿(はえ)が集(たか)っている。半乾きになった傷の周りや、その中心のぬらぬらとした紅い肉に小さな黒い蟲がわらわらと蠢(うごめ)いている。また、右の肩をどうにかしたらしく、紫色になって酷く腫れ上がっている。

 マトウォーネはその整った顔を僅かに歪ませると、少年の傍らに膝を着く。そして、彼の体に集っている蟲達にどいてくれるように話し掛ける。暫くして、少年の体を覆っていた蟲達は飛び去って行った。

 「大丈夫ですか!?」

 大きな声で呼び掛ける。が、返答は無い。頭を強打しているらしい。

 マトウォーネは乾いた唇を舌先で湿らせると、荷物を地に置き、癒しの術を行使する準備をした。

 心を落ち着かせ、大地の精霊に話し掛ける。本来なら水の精霊が適任なのだが、水の少ないこの場所ではマトウォーネにも精霊にも負担がかかるし時間も食う。

 召喚ではない為精霊は姿を現さないが、彼女に力を貸してくれているのは確かであった。温かい癒しの力が掌に集まり、少年の汚れた傷口を浄化し、血と肉を癒す。

 やがて、少年の苦しそうな表情が次第に和らいでいき、呼吸も落ち着いた。精神的な部分も快方に向かったらしく、譫言(うわごと)を言わなくなった。

 反対にマトウォーネの額にはびっしりと汗の玉が浮き、呼吸が上がってきている。極度に集中力が高い為に彼女の精霊術は失敗する事がほとんど無いが、その反面体に対する負担は半端ではない。

 精霊の力によって少年の傷は癒された。だが、失った血や組織は創る事は出来ない。暫く体の不調はあるだろうが、この年齢の少年ならすぐに回復するだろう。

 マトウォーネは完全に少年が癒えたのを確認すると、被っていたショールで日影を作り、少年に膝枕をして休ませる。何処を見ても木陰など休める所は無いので、無駄な体力を使わない為にその場で安静にさせる事にした。マトウォーネ自身も極限に体力が落ちていたので、あまり動きたくはなかったし、動けなかった。

 幸い、朝になったばかりで日射しは強くなく、ノッティンガム高原の涼しい風が吹いていた。マトウォーネは食が細い為、食糧も水もまだ残っている。この辺りに棲んでいた動物は戦火から逃れて遠くにいるだろうから、外敵の心配もまずなかった。後は少年の覚醒を待つだけだ。

 陽が高くなり始めた頃、少年がうっすらと瞼を擡(もた)げ。それに気付き、マトウォーネはまだ蒼い顔をしていたが、少年の無事に微笑んだ。

 「良かった…大丈夫ですか?」

 「ああ………………君は?」

 左右の瞳の色が違う、幻想的な美貌の少女に夢見心地になりながら、少年がぼんやりと問う。

 だがそう言った瞬間、マトウォーネは緊張の糸がぷつりと切れてしまったのか、体を支えている力を失って横に崩れる。それを少年は、戦士の俊敏さで咄嗟に支える。彼の体は十分に回復していた。

 「あ…有り難うございます…済みません」

 マトウォーネは己の失態に申し訳無さそうな顔をして、少年に大丈夫だと告げる。そして彼女を心配して集まってきた大気の精霊達にも礼を言って彼らを帰す。

 その行為を見て、少年はこの少女が精霊術を使って自分を助けてくれた事を悟った。

 「君が俺を助けてくれたのか?」

 少年の問いにマトウォーネは小さく微笑んで頷く。その微笑みをみて少年は、彼女の普通とは違う容姿を気にする事無く、心から「天使のようだ」と感じた。

 「…有り難う。君は命の恩人だ」

 そう言って少年はマトウォーネの小さな手を握り、サトゥルンと名乗った。ノッティンガム王国の乱心王を捕らえる為に五大国家から命を受け戦っていた、自由国ガレオーンの第一軍士官であった。

 サトゥルンは是非礼をしたいと言い、そう遠くはないであろう自分達のキャンプに招待したいと申し出た。彼の敬愛する将軍にも是非紹介したいとの事であった。行く当ても無いマトウォーネは、疲れている事もあって喜んでその申し出に便乗する。

 サトゥルンの的確で鋭い方位確定で二人はゆっくりとキャンプがあるであろう方向に歩き出し、途中で乗り手を失って、僅かに生えている草を食(は)んでいた馬を捕らえると、それに乗って移動した。



 一日をかけて、二人は自由国ガレオーンのキャンプに辿り着いた。サトゥルンが生還したと、歓声を上げてどっと駆け寄ってくる戦士達を見て、マトウォーネはその数の多さに驚きつつも、サトゥルンが助かって本当に良かったと思っていた。

移動中にサトゥルンから、自由国ガレオーンの事を色々聞いた。五大国家、特に白竜の守護するトネルト王国の支持を受けて、出身や種族性別など、何も問わずに志ある者だけが集って構成された移動国家である。戦士ばかりではなく、その家族である女子供も共に旅をしている。

国家と言っても、土地がなければならない訳ではない。土地を持たない、民のみで成り立つ国家というものは確かに珍しいだろうが、それは確かに国家である。民の居ない国など、国家とは言えない。

元はと言えば、トネルト王国のガレオーン家の人間が新たな土地を求めて一族の者を連れて旅に出たのが始まりであった。今は自由に戦う者の憧れの対象である。

今現在のガレオーンの目的は土地探しではなく、魔物退治や戦争勃発時の仲裁や制裁など、軍事的な目的が主である。その活躍で、五大王家のある大陸北東部は、魔物の活動は極めて大人しく治安も良い。

サトゥルンの生還を喜ぶ部下に、彼はマトウォーネを命の恩人だと紹介し、彼女を来賓用の天幕に通して休ませるように命じた。

マトウォーネはサトゥルンに、生還の報告などをしてくるので案内された天幕で待っていて欲しいと言われ、素直に頷く。見知らぬ人々の中に放り込まれるのは不安だったが、サトゥルンの信頼のおける部下だという人がついていてくれるらしいので、少し安心した。その人物も全く見知らぬ人なのだが、サトゥルンのお墨付きならば信頼しても大丈夫だろう。

 流石に一国家ともなれば、呆れる程に大規模なキャンプで、沢山の天幕の間を通ってからマトウォーネは一つの大きな天幕に通された。陽はすっかり落ち、辺りを煌々(こうこう)と照らす松明の揺らめきの中で、何処からか兵士達の宴の声が聞こえていた。話では、既にノッティンガムの乱心王は捕らえられたという事であった。

薄暗い天幕の中で、マトウォーネは出された食事を有り難く貰い、暫く大人しくしていた。天幕と言っても小さな小屋程にきちんとしていて、家具などは勿論携帯用の物だが、立派に生活出来る環境だ。

じっと座っていると、遠くから宴のざわめきが聞こえ、周囲からはきびきびとした男性の声が時折聞こえる。軍人達の醸し出す独特の雰囲気だ。馴染みが無く、どうも少し居心地が悪いので少し気分転換に散歩でもしようと思った。

 彼女を案内してくれた戦士は、外にいると言っていたのだがその姿は無い。小用でも出来たのだろうか。だが、すぐに戻ってくるつもりでいたので、黙って出掛ける事にした。

 マトウォーネは心を落ち着かせる為に、静かな暗がりの方へとゆっくり歩いていった。これから、この大きな集団の長とも言える将軍に会わなければならない。少し緊張してもいた。それに、ウオルムスでのどさくさでシエラから貰った地図を無くしてしまったので、ウオルムスへ行く方角を訊いたりなど、これからの事も考えなくてはいけない。

 気が重かった。

 大まかに考えても、これからもう一度ウオルムスに戻って、あの大きな街の中からワイアットの親戚を捜さなくてはいけない。その間にも滞在費や食費などがかかる。働き口を探して働かなくてはならない。仮にワイアットの親戚が見つかったとして、どうやって身の上を信用して貰えるだろうか。そもそも、ワイアットの親戚である人に引き取って貰えるのだろうか。仮に拒まれたり、見つからなかったら…?

 考えれば考える程際限(きり)が無い。

 ワイアットの事を想い、溜息が出た。滅びてしまったアルスの村を想い、涙が出た。絶望的だった。

 シエラは今、どうしているのだろう。正体不明だが、少なくともあの優しい男と一緒に居た時間は安らげた。もう一度会えるだろうか。恩を返せるだろうか。

 そんな事を考えながら、マトウォーネは松明の照明で僅かにその光を失った星空をぶらぶらとしながら見上げていた。そんな彼女に声を掛ける者がいた。

 「何溜息なんて吐いてるんだよ、お姉ちゃん。パーッと騒いで嫌な事なんて忘れちまおうぜ」

 酒気が入って掠れた男の声がし、はっと振り向けば酒瓶を持った男達がにやにやと笑ってマトウォーネを見ている。ふと、一人が手にした灯りを彼女の方に掲げて言った。

 「見ろよー、この女の目。変な色―」

 「あ、本当だー」

 「ばっかお前、飲み過ぎだってよ」

酔っぱらった男達は口々に騒ぎ、馬鹿笑いをしながらマトウォーネに言葉を浴びせかける。

小さな頃、アルスでも同じ様な事があった。その異様な容姿の所為で、マトウォーネは格好の苛めの対象になっていたのだ。久しくコンプレックスを強く刺激され、羞恥と情けなさに頬が紅潮する。

 一人がマトウォーネの長く伸ばされた黒髪をグイッと引っ張る。髪を引っ張られた事など、子供の頃ぐらいしか無い為にマトウォーネが痛さのあまり悲鳴を上げる。

 「っきゃあ! 止めてください!」

 華奢な美少女の悲鳴に、男達は心の中のサディスティックな部分を擽(くすぐ)られたのだろうか、それまでと違った目で彼らはマトウォーネをじろじろと見る。

 「なぁ、こんな所に一人でいるってえのは…あれだろ? それとも誰かと待ち合わせしてんのか? 俺らと遊ぼうぜ? なぁ」

男達はマトウォーネのことを、ガレオーンの女だと思っているらしい。若い兵士の恋人がこうした暗がりで密会したりするのは珍しくない。

また、ガレオーンが立ち寄った街から娼婦がついてきて共に旅をし、ある程度滞在して商売してから別の街に移ったりなどもある。街から街までの移動中には、生っ粋の戦士達と共にいるのだから身の安全は完璧だ。おまけにここの戦士達は羽振りがいいし、ガレオーンの男ともなれば女達の憧れの的だ。娼婦達にとって、ガレオーンは実に利用し甲斐のある場所なのだ。

 肉の薄いマトウォーネの背中が、男の手によって撫で回される。全身に悪寒が走った。掴まれたままの髪が痛い。男の酒臭い息がもろに耳元にかかる。少女の目にうっすらと涙が浮かぶ。

 「止めてくださいっ! いやっ!」

 髪を掴む手を何とか外そうと、男の手と格闘しながらマトウォーネが必死に哀願する。その様子に男達は更に己の中の獣を猛らせ、歪んだ笑いを浮かべる。男の手が少女の衣服に掛けられようとした時、周囲の闇を切り裂く様な鋭い声が飛んだ。

 「何をしているっ!」

 若い声だが、その声には十分過ぎる程の貫禄と威厳があった。

 「しょ、将軍!」

 マトウォーネを囲んでいた男達の背筋が反射的にピッと伸び、マトウォーネは解放された。

 「マトウォーネさん、大丈夫ですか?」

 聞き覚えのある声がし、サトゥルンがこちらに向かって駆け寄ってくるのを見たマトウォーネは、安堵して小走りにサトゥルンの元へゆく。涙ぐんだ目を擦り、サトゥルンが肩に掛けてくれたショールを握り締める。

「…サトゥルンの命を救ってくれた者だな?サトゥルンは失えない有能な部下、感謝しきれない恩人に大変な失礼をした。

だが、不肖(ふしょう)とはいえこの者達も大事な部下、こちらで厳しい処分をしておくので、どうか許して欲しい」

 将軍と呼ばれた若い男がそう詫びた。暗くてその顔立ちははっきりと判らないが、雰囲気からして精悍な青年だ。サトゥルンが敬愛して止まない弱冠二十一歳の『少年将軍』。将軍という位からであろうか、多少厳しそうな人間だが、今の台詞からその立派な人間性が伺われる。これなら多くの部下から慕われていると言っても頷ける。

 「いいえ…大丈夫です。ただ、少しびっくりしただけで…」

 マトウォーネは将軍の言葉にゆるりと首を振り、気丈にも微笑んでみせた。それに将軍は「そう言って貰えると有り難い」と礼を言い、改めて礼をしたいという事で、彼女を自分の天幕に招待した。

 サトゥルンが多忙な将軍にやっと生還の報告をし、それから諸々の仕事を手早く済ませてからマトウォーネが待機している筈の天幕に駆けつけたのだが、既にマトウォーネはいなく、探していた所にこの騒ぎに出逢ったという話であった。

 自分達が悪戯をしようとしていた少女が、大変な人物だと判って男達は至極恐縮した。だが、自分達の事を思ってくれている将軍の言葉と、それに対して快く許しの言葉をくれた少女に、心から感謝と反省をしてマトウォーネに謝罪の言葉を向けた。


 「では改めて礼を…」

明るく照らされた天幕の中で将軍はそう言い、軍支給の外套を脱いで所定の場所に置くと、背後にいるマトゥオーネを振り返る。

そして、二人の表情は凍り付いた。

茫然とする二人。

常に冷静沈着な将軍が部下の前では決して見せない表情を見てしまい、サトゥルンが将軍に訝(いぶか)しげに声を掛ける。だが、それも二人には聞こえていない様だった。

 「その…目は…」

 マトウォーネが震える声でやっと言った。

 彼らは、互いに自分しか持っていないと思っていた目を、今目の当たりにしていた。左右の色が異なる目。オッド・アイ。

 少女の目は燃え盛る炎の紅と、黄金の輝き。

 少年の目は天空を裂く雷の紫と、大地の黒。

マトウォーネは、自分一人だけだと思っていた異質な目を持つ者を初めて見た。

ワイアットは本当の家族ではない。森の中で記憶を失って倒れていたのを、ワイアットと義父に拾われてアルスの村で育ったのだ。

同じ目。同族。何か自分の出生について判るかもしれない。

それまでアルスで平和に暮らしていたマトウォーネは、自分の出生について、それなりに興味はあったが特に知りたいとは思わなかった。アルスでの生活が幸せだったからだ。だが、身寄りの無い今は話が違う。もしかしたら、この目から何かを手掛かりに本当の家族と再会出来るかもしれない。

今まで他人と違うばかりに忌んでいた目だったが、今回ばかりは心から感謝した。マトウォーネの胸に、新しい希望の光が一筋差し込み、様々な可能性と将来の展望が開ける。


また、将軍はマトウォーネがオッド・アイである事について、別な意味で驚いていた。彼の母親も同じ目(オッド・アイ)を持っていたので、オッド・アイ一族が自分一人ではない事は知っていた。

彼はマトゥオーネがサトゥルンを伴って現れる事を、前もって伝えられていたのだ。

予言。

そういったものは毛嫌いし、半分も信じていなかったそれが見事に適中し、彼は驚愕していた。

ある晩に彼の天幕を訪れた女がそう予言したのだ。ガレオーンの第三軍にいる普通の女だ。だが、その中には正義の女神と名乗る「もの」が入っていたのだ。

そして、予言は成就された。予言はそれだけではない。もう一人、オッド・アイの少年がいるという。また、女神は魔人フィリオンに封じられた自分を助け出して欲しいと言って来た。

彼でなくても十分に怪しいと思う話である。

正義を司る女神オルトリープ。そして、誰もが子供の頃から絵本などで聞かされる魔人伝説の魔人、フィリオン。当時、勿論彼は女の正気を疑った。耳にするだけでも、何とも陳腐な作り話なのだろうと思っていた。

思っていたのだが、彼女の告げた近い未来の予言が、今目の前で成就されている事は認めざるを得なかった。

偶然にしては出来過ぎていると思う。だが、サトゥルンを負傷させる事は出来たとしても、女の言った通りの容貌の少女が彼を助けてここへやって来るというのは、そう出来るものではない。まして、彼女の目は本物だ。

サトゥルンからの報告ではこの娘は精霊術を使うという。もしかしてこの娘が黒幕であの奇妙な悪戯も考案したのだろうか。

そう疑ってみる。

だが、『人を外見で判断すると痛い目にあう』という教訓を分かっているつもりでも、目の前に居るひ弱な少女を見てその案は却下される。

 「まさか本当に現れるとは…」

 誰にともなく将軍は呟き、その潔癖そうな口元を大きな掌で覆った。

そして考える。あの女が言った事が真実ならば、オッド・アイの仲間と共に旅をすれば、自分の家族を奪った仇とも自ずと出逢えると言っていたのも真実であろうか。


彼は子供の頃に両親を目の前で惨殺され、仇討ちを心に誓って妹と二人で旅をしていたのだが、その数年後にその妹も惨殺された。

犯人は違う人物なのだが、二人共同じ紋章を額に刻んでいた。そして、妹を殺した犯人は、両親を殺した人物と仲間だとはっきりと言ったのだ。

妹を失ったショックで彼は自我崩壊を起こしかけていた。が、そこをこのガレオーンの人間に拾われて救われたのだ。そして、ここに属している方が、何かと情報が集まりやすい事、彼自身の剣の腕を買われた事などでガレオーンに所属する事を決意し、数年の内にその才覚を認められて今の地位にいる。

それでも、敵(かたき)の情報は得る事が出来なかった。そこに、女の予言があった。

いや、だが       

簡単に信じてしまうには、失ってしまうものは大き過ぎるし責任や立場というものもある。第一に、どう考えても絵空事としか思えない。今の時代、何処の誰が伝説の魔人や封印された女神などの話を信じるだろうか。そして、自分は選ばれた℃メなのである。片腹痛い。

それでも、やはり目の前の現実は最低限認めない訳にはいかないだろう。


 まだ動揺を残した状態だが何とか気を取り直した彼は、サトゥルンを下がらせるとマトウォーネと二人きりで対峙した。そしてまだ名を名乗っていない事に気付き、非礼を詫びてオースティンと名乗る。

そして、ぽつりぽつりとオースティンはマトウォーネに自分の事を話し始めた。

「…俺はお前の暮らしていたアルスがあるトネルト王国の王都出身だ。貴族の家に生まれ、国の騎士であり『英雄』と呼ばれた父と同じ様に立派な騎士になる事を夢見て暮らしていた。

 だが、俺の九歳の誕生日の時に、突然現れた見知らぬ男によって両親は目の前で惨殺された。俺と妹もその時殺されるかと思ったが、男はそれをしなかった。生かされた俺達は仇を討つ事を決意し、それまでの生活を棄てて戦士協会に所属し力を求めた。

守ってくれる人がいなくても自分達の力で戦えるレベルまで成長すると、屋敷を叔父に託して旅にでた。そして妹と二人で仇討ちの旅を続けていたが、俺が十五の時………もう六年も前になるな…妹が殺された。俺の目の前で頭を割られて死んだ。相手は両親を殺した奴と同じ紋章を額につけている奴だった。それが何の紋章かは分からない。紋章を扱っている所で隅から隅まで調べても、そんな紋章は無かった。

妹を失って…己すら失っていた俺を、このガレオーンに拾われた。それから、ここの情報力に頼って仇を探す事にして滞在し続けた。その間に将軍という位を貰う事にもなったが…。

実は先日、正義の女神というのが降臨した状態の女の訪問を受けて、お前が現れる事を予言された。サトゥルンも無事な姿で戻ってくるとも言ってな。…それはその女の話を信用させる為の保険としての予言だった。自分は魔人フィリオンに封じられているから助けて欲しいとの事だったが…。勿論、そんな話をいきなりされて信じる訳が無い。それを信じさせる為に女は『予言』をした。もし、信じるのならば自分を助けて欲しいと言ってな。

その旅の中で仇とも出会う事が出来ると言った。そして、同じ目…オッド・アイを持つ者が俺の他に二人いて、その二人も同じ仇によって大切な者を殺されていると言っていた…」

いきなりの身の上話を、マトウォーネは黙って聞いていた。女神の『仲間になる同族は、全て共通の敵に大切な者を殺されている』という言葉を、彼女は深く心に留めた。そして、オースティンの話が終わると今度はマトウォーネが、それまでの話をし始めた。

辛い涙を沢山流した、ついこの間の話を。

 話が終わると、二人は暫く黙っていた。

奇妙な沈黙だった。出逢って間もない二人が、一気に運命共同体という話になっているのだ。

茶番と言えばそうとも言える。

だが、二人共失ったものは大きく、話は深刻だった。

全てを棄ててでも、果たしたいと思う願い。

それがどんなに陳腐な作り話だとしても、僅かな手がかりがあるのならば全てをかけてでも追求したい。

 自分の出生や、アルスをあんな風にした犯人が判るかもしれないと思い始めたマトウォーネが、オースティンに尋ねる。

 「オースティンさん、貴方は信じていないのですか?」

 マトウォーネにしては珍しい、強い口調にオースティンは彼らしくない歯切れの悪い口調で答える。

 「…確かに、お前がこうして現れたからには、まるきりの嘘とは思っていないが…」

 全てが明るみに出ようとしているのに、なかなかそれらしい言葉を出さないオースティンに苛立ち、マトウォーネはついつい詰問する様な言い方になってしまっていた。

 「仇を討ちたいとは思っていないんですか?」

 その言葉にオースティンは弾かれた様に、マトウォーネを強い瞳で見返した。少女を怒鳴りつけるなど、冷静沈着が売りの彼らしくもなかった。

 「勿論思っている!」

 その痛切な瞳を向けられて、マトウォーネはハッと自分が言い過ぎた事に気付く。つい先刻、家族を目の前で惨殺されたと聞いたばかりではないか。大切な者を失った気持ちは、自分がよく解っている筈だ。なのに      

 「…ごめんなさい…私、自分の事しか考えていませんでした…」

蚊の鳴くような声で謝罪するマトウォーネを見て、オースティンもまた自分らしからぬ行動にまいっていた。

思っても見ない展開に事が進んで行き、一番苦手なタイプの人間とこうして二人きりで話さなくてはならない。話している内容が内容だけに、冷静さを保つ事さえ忘れてしまい、こんな少女を怒鳴りつけてしまう始末だ。

 「いや…いい。俺も怒鳴ったりして悪かった。

 ただ、俺はここにいる者の頂点として、こいつらをまとめて行かなくてはならない。今の地位も簡単に手に入れた訳ではない。周りに期待され、望みをかけられ、夢を託されて俺はここにいる。

 いきなり女神だの、魔人伝説だの、伝承に出てきそうな絵空事めいた話の為に、大切な役目を放棄するわけにはいかない。俺を必要としてくれている者が、ここには沢山いる」

 その言葉を聞いて、マトウォーネは彼の立場というものを自分が失念していた事に気付く。軍の事などは良く分からないが、将軍という人が軍隊にとって一番重要な人物だという事ぐらいは識っている。

 「ごめんなさい…私…」

白い顔を羞恥の為に紅く染め、俯いて謝るマトウォーネを、オースティンは「いいから」と手を振って制する。すぐに泣くか弱いタイプの女は、彼の最も苦手とするものであった。

暫くの気まずい沈黙の後、考えていた事をオースティンは提示する。

 「少し俺に時間をくれ。それについてじっくり考えるには、今はまだ やる事が多過ぎる。むさ苦しい男共ばかりの所で悪いが、暫くここで寝泊まりしてはくれないか?」

 その提案にマトウォーネはそうするのがオースティンにとって一番いいのなら、と思って頷いた。マトウォーネには特別しなくてはならない事や、時間の制限などない。むしろ、行く先に困っていた所だ。

 そして、マトウォーネはその日から、ガレオーンの第三軍に属する女子供達に混じって生活する事になった。彼女の世話は、第三軍の大佐であるレイラーシュというフェミニストの青年が務めてくれた。

 ガレオーンは中枢機関と第一軍から第三軍に分けられて構成され、第一軍は剣や槍などでの白兵、第二軍は遠距離攻撃や補助の戦士や魔導士、第三軍に情報部隊や救護班、そして非戦闘員である荷物運びや女子供、それらのガードが配属されている。

マトウォーネはただ飯喰いは生活信条に反するので、第三軍の救護班を手伝った。精霊術に関しては、ほぼオールマイティにこなせるので攻撃や攻撃補助も出来るのだが、戦が終わった今はその後始末とも言うべく救護班が徹底的に不足していた。マトウォーネの潜在的な魔力の高さ、精霊術のレベルの高さはそこで大いに役立った。それは、陰で『癒しの女神』という名でファンが出来る程の始末であった。

マトウォーネは気付かなかったのだが、彼女の異様な容姿はあまり問題にはならなかった。確かに、彼女の姿を見てぎょっとする者は多かったが、マトウォーネがそれに気付く前に「将軍の客人」という情報が伝えられていたので、それだけで彼女が自分の容姿の事で思い悩む事はなかった。むしろ、皆の反応が自然なので自分の容姿の事を忘れていた程だった。



ノッティンガムの騒乱は完全に終わった訳ではなかった。乱心王が捕らえられた後も、王命に従うままにガレオーンと戦っているノッティンガムの戦士達がいた。

勿論、彼らとて好き好んで戦っている訳ではない。それでも、乱心王が捕らえられたからと言ってすぐに降参退却する訳にはいかないのだ。仮にも彼らはノッティンガムの誇りある戦士なのである。しかし、事実王が捕らえられたという報告以来、士気は完全に下がっているので、降伏に至るまで間もなかった。

 誰も、ノッティンガムの人間は好きで戦っていた訳ではなかった。従わなければ殺される。絶対的な権力に逆らう術がない者は、従って生き長らえるしかない。死刑をゲームの様にして行う乱心王には、如何なる説教も糾弾も通じないのだ。長年従った善き臣下すらも、乱心王は人が変わってからは、些細な事で簡単に死刑にしてしまったのだ。

結局、温厚だったディスラー三世が乱心王となってしまった理由は解らなかった。だが、ノッティンガム国民にしては、終戦の報告は喜び以外の何ものでもなかった。

ただ、敗国となってしまったノッティンガムのその後の処置を国民は不安がっていたが、この度の戦は乱心王によって引き起こされたものであり国民に何ら関係は無いので、かえって五大国家から被災基金が送られる事になった。

 ガレオーンに一時捕虜となっていたノッティンガムの戦士達も、オースティンの判断で終戦が宣言されると同時に釈放された。ノッティンガムの戦士の中には、『望まない戦いは避ける』というオースティンの戦闘信念に惚れて、ガレオーン入国を希望する者も多数いた。彼のその信念によって命を救われた者は、少なくなかったからだ。



マトウォーネがガレオーンと共に生活するようになってから半月。半月振りに彼女はオースティンと見(まみ)えた。

その間にもちらりと見掛ける事はあったが、多忙なオースティンに話し掛ける事は出来なかったのだ。

オースティンはやっと、ノッティンガムの騒乱におけるガレオーンの役目を果たし終えた。そしてある晩、ようやく時間のゆとりを持つ事が出来たので、彼はマトウォーネを自分の天幕に呼び寄せた。

独特の雰囲気を持つ彼に、二人きりで逢うのは心の準備が要る。そして、マトゥオーネは男性としてオースティンと二人になるのにも、心を揺らしていた。別に一目惚れとかそういうものではない。同性である男ですら、憧れてしまうオースティンだ。うら若い女性に意識するなというのは無理な話だ。

オースティンの天幕の前で立ち止まり、二、三深呼吸してから見張りの兵に来訪を告げてもらう。すぐに彼女は中に通された。見張りの兵は通りすがりに「顔は恐いけどいい人ですから…頑張って下さい」と笑って囁いた。それにマトゥオーネは破顔し、やや緊張がとれた状態で久し振りにオースティンと会った。

 彼は初めて会った時よりも、仕事の量が減った為か幾分和らいだ顔つきをしていた。が、逆にそれまでの仕事の過酷さを表すかの様に、その輪郭は幾分鋭利さを増していた。

 「ここには慣れたか?」

オースティンの問いにマトウォーネは微笑んで頷く。ガレオーンに滞在するようになってから、自分の居場所というものを持ったマトウォーネも、オースティンと会った当初と比べていい顔をしていた。

故郷を、大切な人々全てを失った痛み、喪失感は今も何ら変る事は無い。だが、自分の居場所が出来、周囲の優しい人達に接していると心の中の修羅は姿を見せる事が無い。

 「はい、皆優しくしてくれています。レイラーシュさんもとても優しい方で…」

 「そうか…」

 マトウォーネの相談役に、フェミニストで「まめ」な正確のレイラーシュを任命したのは正しかったと思い、オースティンは頷く。そして暫く沈黙してから、徐(おもむろ)に口を開いて本題に入る。

「…あれから色々考えた。俺とお前の…否、俺とお前ともう一人の、共通の仇…女神と名乗る女の話した事…それらを信じるか、はっきり言って迷った。だが、信じてみようと思う。あの女の言った事の一つは、こうして真実となっているしな。
 確かな情報ではなくても、僅かな可能性を信じてお前と旅をしようと思う。出来るものなら、この手で奴等をぶち殺してやりたいからな」

 半月悩んだ末の決断であった。

 その言葉を聞いて、マトウォーネも気を引き締める。今までガレオーンの人々と仲良くやってきたが、オースティンがこうして決断した以上、女神の言う事を信じて少人数での旅を始めなければならないのだ。オースティンが悩んで悩んだ末に決断した事だ。自分もガレオーンに愛着が沸いているが、それを振り払わなくてはならない。

 と、その時「おいっ押すな!」という切羽詰まった声がしたかと思うと、ドドドドドッと天幕の入り口から、組体操のピラミッド状になった兵士達がなだれ込んで来た。それをマトウォーネはポカンと口を開けて見、オースティンは呆れて目を閉じ眉間に皺(しわ)を寄せる。

 そんな二人を気にせずに、彼らは口々にオースティンに向かって悲鳴の様な声で訴える。

「将軍! それって、それって、ここ辞めちゃうって事なんですか!?」

「辞めないで下さい! 俺達は将軍にしかついていきません!!」

「将軍んんんんんっっ!」

 オースティンは暫くそれらを額に手を当てて聞いていたが、一つ息を吐いて立ち上がると彼らを一喝する。

「黙れ! そう一度に言うな! …まずお前達に訊こう。何故ここにいる?」

オースティンに怒られて兵士達はそれまでの勢いは何処へ行ったのか、互いに顔を見合わせながらぼそぼそと言い訳をし始める。

「それは…その…」

 それぞれの言葉端を拾って統合すると、どうやらオースティンが彼らの間のマドンナである『癒しの女神』を、プライヴェートで自分の天幕に呼んだ事に下世話な興味を抱いたらしい。

 オースティンは性欲処理として時々女を抱くものの、恋愛などとは程遠い存在であった。長身である上に、男でも惚れ惚れする精悍な容貌(おもざし)。その強さは言うまでもなく、家柄や地位も申し分ない。彼に惚れる女は数知れなくても、彼が誰かを気に留めるという事は無かったからだ。

 ガレオーンの戦士とはいえ人間、それも若い者なら色恋沙汰に興味を持つのは当然(あたりまえ)の反応だ。彼らとしても、敬愛する将軍に春が来たというのなら、例えその相手が彼らが戦線協定を結んだマドンナであっても応援する心構えであったのだ。

 暫くオースティンはこめかみを押さえて沈黙していた。兵士達は怒鳴られるのを今か今かとびくびくとして待っていたが、彼らの予想に反してオースティンは優しい声で彼らに語り掛けた。

「俺も悩んだ末の結論だ。何も今の状態を軽視している訳ではない。ただ、俺が何よりも望んでいる事は今も昔もただ一つ、家族の仇を取る事だけだ。元より何か情報が掴めたらここを去るつもりだった。
 ここに居る時間が思ったより長く、将軍という位まで貰い、お前達の様な優秀な部下にも恵まれたが、それを棄ててしまえる程重要な事なんだ。命に代えてでも、これは必ず果たさなければならない自分自身との約束なんだ…分かってくれ」

 揺るぎ無い穏やかなオースティンの言葉を聞いて、兵士達は彼が本気である事を悟り、しゅんと項垂れる。ガレオーンにいる者なら誰もが、オースティンの目的は彼の仇を捜しているという事を知っているのだ。誰も止められない。止めてはいけないのだ。

部下からも誰からも尊敬され、慕われていたオースティンの突然の退役宣言は、ガレオーンに大きなショックを与えた。彼は多くの人間に心から惜しまれながら、数年間寝起きを共にしたガレオーンに別れを告げた。絶望の淵から救ってくれた友に、自分の居場所を与えてくれたガレオーンという存在に、オースティンは心から感謝していた。だが、それを振り払ってでも家族の仇を討つ事を択(と)ったのだ。

彼の中では、復讐こそが唯一家族への餞(はなむけ)となるものと信じていた。

他に道を見付ける事も出来ない。それをしてしまえば、それまでの彼の人生全てを否定してしまう事になるし、これからの彼の全てを失ってしまう事になる。そうなれば、おそらく自分は抜け殻になるだろう事を彼は分かっている。

マトウォーネは、こうなる事がオースティン自らの選択の結果であるという事を重々承知していたが、そのきっかけとなる事が自分の出現によるものだと思うと、ガレオーンの人々からオースティンを奪ってしまった気がしてならなかった。

そんな事は自分が気にしても仕方がないという事は解っている。だが、繊細な少女の心はガレオーンの人々に対する済まなさで一杯だった。



 「取り敢えずは、主力スポンサーであるトネルト王に挨拶をしなければならないから…。俺としては一度トネルトに向かいたいのだが、いいか?」

 オースティンにそう言われてマトウォーネは頷く。女神が残した言葉では、具体的にどうすればいいという指示はなく、オースティンに思うままに行動すれば自然と運命は開けるという、考え様によってはかなりいい加減な話であった。だが、それに彼女は素直に従おうと思っていた。

 アルムという辺境で暮らしていた自分には、街のあるこちらのことは何も知らない。ガレオーンで大陸北東部を移動生活していたオースティンならば、そのあたりは頼もしい限りだ。自然と、これから先に関して、リーダーはオースティンになるのだろうと思っていた。


 ただ、二人に共通する悩みがあった。互いの接し方が解らないのだ。

マトウォーネにしては、オースティンの様な男は初めてのタイプであった。元からの顔つきと、その孤高の王者を思わせる厳格な雰囲気が、二一歳という歳以上に彼を大人びて見せた。

また、オースティンの口調もマトウォーネにとっては厳しいと思えるものであった。決して怒っていたり悪気があってのものではない事は解っている。恐らく生まれ持ってのものであろう。だが、それがどうにも苦手で堪らなかった。

 彼のその雰囲気が、自然とマトウォーネに敬語を使わせる。それが更に二人の間の溝を深めている事を、マトウォーネ自身も解ってはいるのだが、それまで将軍として多くの人々に上に立っていた者に対して、自分が一個人としてどう接するのが良いのか判らなかった。

マトウォーネから見ても、オースティンは十分に魅力的な男性だ。意識していないと言えば嘘になる。これから当分は恐らく二人きりで旅をする事を考えると、あらゆる面で意識してしまうだろう。

そんな事を考えている自分を、もう一人の自分が見て幻滅する。大切な人々を奪った仇を捜す旅だというのに、何を初めから浮き足立っているのかと。


そしてまた、オースティンもマトウォーネの扱いに関して大いに頭を悩ませていた。二一年間の大半を軍人達に囲まれて生きてきた彼だ。女性に対しての優しい扱いは、彼の最も苦手とするものであった。

一国の王女や貴族の娘達に対する礼儀なら問題はない。だが、マトウォーネは違う。これから長くなるであろう旅の仲間だ。

両親が健在だった頃は、トネルト王国の名誉ある騎士団『星』の騎士団長であり、王家の歴史帳に名を書かれた『英雄』である父の部下に囲まれていた。その後は騎士になる為の学校を辞め、戦士になる為に戦士協会に加盟して腕を磨いた。そして旅の途中妹を失い、ガレオーンに属した。

その中で、女性と呼べる人間との近しい交流は無かった。

 貴族の家であった為、少年時代は両親についてそれなりの席には参加した。何事もそつなくこなせる彼は、礼儀作法やダンスなども完璧にこなせるが、如何せん社交界で優雅に暮らすには堅物過ぎた。同じ位の歳の男の子が異性について騒いでいる時、彼は剣を握っていた。

そういう生活が身に付いてしまい、女性と接するのは時々女を抱いたり、ガレオーン第三軍の女性達に将軍として挨拶をしたり、スポンサー諸国に年に一度挨拶をする社交界ぐらいであった。

これから、この華奢ですぐに壊れてしまいそうな少女と共に寝起きする事を考えると、気が重かった。

戦闘で役に立たないであろう事は一目瞭然だ。

特技は精霊魔術を使えるという事である。回復の方の力はかなりの実力という報告を受けたが、攻撃の方はどうであろうか。仮に使えるとしても、このタイプの性格なら敵を傷つける事に躊躇(ためら)いを持ったりする可能性も十分に有り得る。

レイラーシュの報告から、その性格についてはよく聞いており、大体の予測はついている。まぁ、戦闘時については自分が守るからいいものの、通常時のつきあいが憂鬱だった。

自分でも口調の厳しさなどは判っている。ついつい語調が強くなってしまうそれに気を付けてはいるのだが、硝子細工の様なこの少女に対して、どれまでにレベルを合わせればいいのだろう。泣かれた日にはかなわない。

 それぞれの思惑を秘めつつ、最初の夜は過ぎた。



§§§



 それから三日経った夕方、二人は薄暗い森の中を馬に跨って横断していた。暫く前にオースティンが暗くなってきたので、そろそろ野営出来そうな場所を探して今日はもう休むと言い、良さそうな場所を探していた所であった。

 先頭を進むオースティンのしゃんと伸びた背筋を眺めながら、マトウォーネは小さく溜息を吐いた。ガレオーンを出てから、もう数日が経つ。そろそろお互いに慣れてもいい頃合いなのだが、お互いにそれらしき気配は無い。相変わらず、過度に気を遣い合っての息苦しい時間を過ごしていた。

 これからずっとこうなのだろうか…。

 あまり人付き合いが得意ではないマトウォーネは、重くのしかかる当面の問題に頭を悩ませていた。だが、マイナス思考ではいけないと、親友だった少女が言っていた。『もっと背筋を伸ばしてちゃんと前を向いて、気持ちを引き締めて自分に自身を持ちなさい!』と、いつも言われていたものだ。

故人となってしまった親友の言葉を悲しい記憶と共に思い出しながら、マトウォーネは小さく息を吸い込む。

気を取り直そう。自分から歩み寄って行かなくては。悪い人ではないのだから、きっとその内仲良くなれる。

 オースティンに何か話し掛けようとして、マトウォーネが口を開きかけた瞬間、マトウォーネの背後に何かがドスンと降って来、冷たくひやりとした物が首筋に当てられた。驚いた馬が嘶(いなな)き、後ろ足で立ち上がる。

 「っきゃあ!」

 マトウォーネが驚愕と恐怖に小さく悲鳴を上げた。

 「何者だっ!?」

 それにオースティンは素晴らしい反射神経で、振り向き様に抜刀する。だが、瞬時にマトウォーネの細い首筋に刃物が当てられているのを見ると、小さく舌を鳴らしてその切っ先を下げる。

 「動くな!」

 マトウォーネを人質にとっている人物が、緊張した声で牽制(けんせい)する。思いの外若い声だ。まだ少年の様な…。

 「約束しろ! もう俺の後をつけ回すな!」

 男はそう言って、マトウォーネの首にピタリとつけた短剣に少し力を入れる。僅かに皮膚が窪む。後ほんの少しでも力を入れたら、薄皮が切れて血が出る加減だ。

 「…何の事だ?」

 こんな状況でありながらも、「は?」と思ったオースティンが相手を刺激しない言葉を選びつつ、慎重に尋ねる。何かの間違いであろう可能性が、急激に膨らんできた。

 「これ! 狙ってるんだろう!?」

オースティンの態度に焦燥した男が、マトウォーネの頸動脈を狙っている短剣の柄をちらつかせる。それは薄暗い森の中の、頼りない照明の中でも燦然(さんぜん)とした輝きと質量とを見せつけた。

見事な造りの黄金の短剣だ。薄暗さの為、詳しくは分からないが柄の部分に精緻(せいち)な模様が刻み込まれている。家柄を示す物であろうか。

 「………………知らんな。そんな物に興味は無い」

 マトウォーネの身を案じつつも、オースティンが完全な勘違いと分かって溜息を吐きながら答える。これ以上必要のない言い合いをしても仕方がないとでも思ったのか、手にしていた長剣をすらりと収めた。

 「あ?」

 男がとうとう間の抜けた声を出す。事の成り行きが怪訝(おか)しいとは思っていたが、やっと自分が何やら勘違いをしていたらしい事が解ってきたらしい。

 誤解であろう事を察し、マトウォーネが短剣の切っ先に怯えながらもしっかりとした声で男に向かって訴える。

 「本当です。私達、貴方の事なんて知りませんし、追いかけたりなんか…」

 「…野盗じゃ…ないのか?」

 そろりと男が問う。

 その質問に、自らに対する武人としての誇りは人一倍高いオースティンが、ムッとして答える。

 「ふざけるな。どれだけ堕ちてもそんなものになる魂は持ち合わせていない」

 それを聞いて男はマトウォーネを脅かしていた短剣を速やかに収め、ひらりと馬から大地に降り立つ。すらりとした青年だった。薄暗い森に黄金の髪がキラリと光る。

 「…何か、勘違いしてたみたいだ。ごめん。お前もな」

最後の一言はマトウォーネの乗っていた馬に対して発せられた言葉で、青年はその鼻面を優しく撫でてそう詫びた。

勘違い甚だしい事件であったが、素直な青年らしかった。動物に対してその様に優しく接する事の出来る青年を、マトウォーネはつい先刻までの自分の状況を忘れて「いい人そうだな」と思った。

 「…マトウォーネ、怪我はないか?」

 「はい、大丈夫です」

オースティンが馬に跨ったままこちらに来、マトウォーネに声を掛ける。それにマトウォーネはにっこりと微笑んで答えた。大切な仲間は一応無事だったらしい。

「まったく…」と、内心悪態をつきながらオースティンは勘違い大王を見遣る。

 その時、森を薄暗く照らしていた照明が、さあっと明るくなった。雲が切れて月がその姿を現したのだ。森がサワサワと音を立ててざわめき、月光が差し込む。

 「あ………」

 青年がオースティンとマトウォーネの顔を見て、小さく声を上げる。その左右の色の異なる目″は、驚愕の為に大きく見開かれていた。

 オースティンとマトウォーネも同様であった。

 オッド・アイ。

 「見つけた…」

 マトウォーネが小さく呟いた。

 「え……?」

 それに青年は訝(いぶか)しげに瞬きする。

 この先、何処でどうやって出逢えるものかと思っていたもう一人の運命共同体が、こんな偶然の形をとってやって来たのだ。

 これは女神の導きだろうか。

 そんな事を頭の片隅で思いながら、マトウォーネは興奮した声を押さえきれずに、最大の笑顔をもって彼に言った。オースティンが言っていた、女神の予言通りの名で。

「私達、貴方を捜していたんです、スカビアス」



それから間も無く、野営をする場所を見付けた三人はそこで夕食を摂りながら、三人目の男に彼らの事を話した。

やはり予言通りに彼もまた、本当の家族の代わりに彼を育ててくれたという、たった一人の家族である女性を失ったばかりであった。

そして奇しくも、仇である人物の朧気(おぼろげ)な特徴は、オースティンから両親を奪った人物と酷似している事が判明した。マトウォーネは実際村の人々が殺されている現場を見た訳ではないので、仇である人物については何も知らなかった。

だが、ここまで偶然が続くと、もしかしてアルスの人々を奪ったのもその人物かもしれないと思わざるを得ない。

「…やっぱり…その『予言』通り、なのかな…」

元々は明るく人懐っこい性格らしく、食事をして話をしている内にすっかり二人と打ち解けたスカビアスが、ぽつりとそう言った。

その言葉に疑わし気な含みがあるのは仕方が無い。こうも見事にお膳立てられていると、疑ってみたくもなる。

「…信じるより他はあるまい。少しでも可能性があるならば、俺はそれを追い続ける。その為に手に入れた場所も棄てた」

自らも同じ疑問を抱いているオースティンだが、自分もそれを述べれば折角動き出したものが途切れてしまうのではないかと思い、スカビアスに信じる事を促した。不安を感じているのは誰しも同じなのだ。

「…そう、だな…」

揺らめく炎を見詰めながらスカビアスがそれに同意する。

「スカビアスさんは、これから何処かへ行く予定はあるんですか?」

マトウォーネが話題を変える。これ以上この話をしていたら、自分もはまり込んでしまいそうな気がしたからだ。

「あ、『さん』なんていいよ、マトウォーネ」

一目見た時からマトウォーネを気に入ってしまったスカビアスが、微笑んで言い彼女の質問に答える。

「今まで住んでいたのはシレノス島っていう島だったから…大陸に来たのは初めてなんだ。ルキナさん…俺を育ててくれた人と二人っきりで生活してきたから、大陸にこんなに人がいたなんて知らなくてびっくりしたし…。

ルキナさんを失って、仇の奴に気絶させられて気が付いたら大陸の浜辺にいた。そこでザンっていう奴に拾われて、暫く厄介になってたんだ。で、どうしたらいいのか分からなかったけど、ルキナさんから俺は『黄金国』って呼ばれていた、今はもう無くなってしまった国の出身だって聞かされてたから…取り敢えずそこに行ってみようかと思ってた所だったんだ」

「…そうですか…」

スカビアスの話を聞いて、マトウォーネはオースティンを見遣る。その視線を受けて、彼はスカビアスに自分達はトネルトに向おうとしている事を告げた。

「いいよ、俺もついてく。生まれ故郷ってのに興味はあるけど、全く記憶にない場所だしね。何か見つかればいいなって思っていた程度だから…。まぁ、いつか行ければいいや」

スカビアスはあっさりとトネルト行きに同意して、これからの当面の目的はトネルト王国という事になった。

「…まだまだ話す事は一杯あるだろうが…こんな森の中にいつまでもいる訳にはいかない。明日早くに出発して、近くにある街道の村についてからゆっくりしよう」

リーダーの決定に従い、それからすぐに就寝する事にした。だが、三人共上手く寝付く事は出来なかった。

奇妙な興奮と期待、不安が三人の胸中を支配していた。

あらかじめ、何者かによって決められていたかの様な出会い。それぞれの似通った境遇。胡散臭いまでの「女神」や「魔人」の単語。この目の持つ意味。

訳がわからない。

でも、果たしたい目的はそれぞれちゃんとあり、それへ向けての道が華々しく広げられている。女神の導き付きで。

考えても仕方が無い。

それでも          

    

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