触れ合ったこころ


三人が出遭ってから五日後。深い森を抜けて人の手の行き届いた街道を進むと、やっと彼らは街道沿いの宿場町に辿り着いた。

宿場町に近付いて人の気配が感じられる様になると、マトウォーネは髪を纏めると荷物の中からショールを取り出し、すっぽりと髪を覆ってしまう。

「あれ? どうかしたの?」

マトウォーネが突然ほっかむりをしだしたので、不信に思ったスカビアスがやや間抜けな声を出して問う。それにマトウォーネは気まずそうな表情をして答えた。

「私の髪…真っ黒でしょ? 他に黒い髪の人なんて見た事ないし…。村では皆優しくしてくれていたけど、外に出てからは黒い髪は不吉なんだって…聞いたから」

ただでさえオッド・アイという異質な目をしているのに、マトウォーネの髪は確かにスカビアスもオースティンも今まで見た事の無い黒髪だった。そして、島暮しだったスカビアスはともかく、黒髪は不吉なものだという話をオースティンが知っているのも確かであった。

加えて、同じオッド・アイでもオースティンは黒と紫、スカビアスは水色と緑という同系色なのに、マトウォーネだけが赤と金というかなり異質な色合いだ。それが更に彼女の異質さを引き立てていた。

「そんな事ないよ! 迷信に決まってる。そーいう、不吉とか災いとか、そーいうのって伝承が間違って伝えられた結果なんだってルキナさんが言ってた。間違った情報で酷い目に逢った人も沢山いるって」

スカビアスが憤然と抗議する。

彼はマトゥオーネの全てが好きだった。確かに黒髪は他に見た事も無いし、珍しいのかもしれない。各地では不吉だという話もあるのかもしれないが、それをマトウォーネに結びつけるのは嫌だったし間違えていると思った。

今まで島に暮らしていた時、ルキナという母代わりの女性しか人間を知らなかったスカビアスは確かに世間知らずな所もある。だが、周囲の情報や「皆がこう言っているから…」という事で物事を決めてしまわないのは、他の者も学ぶべき所である。

聡明な女性に人として何を考え、何をするべきかを教え込まれてきたスカビアスは、自分の目で見て自分が感じたものにのみ従う。それは情報が氾濫し、全てが大衆化して己というものを見失い勝ちな人々の中で、難しく、また理想とされる生き方でもあった。

「……でも……」

スカビアスの言葉を嬉しいと思いつつ、マトウォーネは拭い切れない不安を隠そうとしない。それまで彼女が辛い目に逢ってきたのも、また事実である。それをいきなり忘れて、新しい価値観を持てというのも難しい話である。

ひょい、とマトウォーネの被っていたショールが取られる。

「あっ?」

サラサラと肩や背中を滑って、真っ直ぐに垂れた状態に戻った髪をおさえて、マトウォーネが焦った声を上げる。

オースティンだった。

「こいつの言う通りだ。下らない事を気にするな」

揺るぎ無い瞳がマトウォーネを見据える。

彼の真っ直ぐで誇り高い目に見詰められると、どうしても自分がとてつもなく矮小で気恥ずかしい存在に思えてしまう。知らず知らず、目を逸らしていた。

私は貴方の様な強さを持っていない。

それがマトウォーネの本心でもある。オースティンの様な、自らに誇りと信念とを持って生きて居る人間は、とても眩しく羨ましく思える。自分もそうなれたらとも思う。だが、自分は自分であって彼ではないのだ。強い人間に、その人の価値観を押し付けられても、強く在る事の出来ない人間には、その価値観というものはただただ重いもの他ならない。

黙って地を見詰めるマトウォーネに、オースティンはゆっくりと言う。

「…お前が何を考えているのかは、大体は想像がつく。だがな、今まで辛い事があったからと言って、ずっとそれから逃げ続けていて何になる? お前は一生弱者のままでいるつもりか?」

「………………………」

オースティンの言葉が痛い。

自分で分かっているだけに、尚の事その言葉は心に響いた。

「…そーいう言い方ないだろ。可哀想じゃないか」

スカビアスが助け船に出るが、逆にオースティンに睨み付けられる。否、彼にしてはやや強い程度の視線だったのだが、如何せん彼の生まれ持っての目つきがあまり宜しくない為に、スカビアスにとっては睨まれた様に感じた。

「……自分に自信が無くて、痛みや苦しみに立ち向かう勇気が無いのだろう? こんな事をしていては自分は前に進めないと分かっていても、恐いからどうにもならないのだろう?」

余りにもストレートな言葉に、マトウォーネは肩を竦(すく)める。その目は潤んできている。

「っおい! 言い方ってものあるだろ?」

我慢出来なくなったスカビアスが、オースティンに掴みかかる。

が、それを敢えて躱す事も防ぐ事もしないまま、オースティンはマトウォーネをひたと見据えたまま言葉を続ける。

「自分を信じられないのなら、俺達を信じろ。俺達が大丈夫だと言っているのだから…信じろ」

はっ、とマトウォーネが顔を上げる。

恐る恐る、オースティンの強い眼差しに視線を合わせる。

厳しい目だ。

決して甘えや妥協、逃走を許さない目。だが、それに立ち向かおうという心があるのならば、その全てを以ってでも支援しようとする優しさがある。

「……………………信じ……ます」

少しの沈黙の後、マトウォーネが逸らしそうになる視線を何とかオースティンに合わせつつ、ゆっくりと言った。

「……正直、恐いです。とても。人から変な風に見られるのはとても嫌だし、悲しいし、辛いです。でも…、一人じゃないなら…頑張れます。……多分」

実際、アルスの村でも彼女が拾われて来た当初は、その様ないじめや陰口があった。それを辛く思っていても、心の深い傷にならなかったのは、隣で自分を支えてくれたワイアットや、心無い事を言う者に対して自分の事の様に憤慨してくれた親友が居たからだ。

二人共、自分の事をとても思っていてくれた。その思い遣りが感じられたからこそ、たった二人の味方でもマトウォーネは頑張る事が出来たのだ。

オースティンがマトゥオーネにショールを渡し、彼女はそれを荷物の中に再び仕舞う。仕舞いながら、もう二度とこれのお世話にはなる事が無い様に、と誓った。

「………………」

スカビアスがゆっくりとオースティンの胸元から手を離す。

「悪い」

ぼそりと謝った。

「行くぞ。久し振りにちゃんとした寝床で寝られる」

スカビアスの額を指でバチンと弾き、オースティンはゆっくりと馬を宿場町に向けて進めた。それに、額を赤くしてぶーたれたスカビアスと、彼を宥めつつ笑っているマトウォーネが続いた。



想像した以上の、好奇の視線とボソボソと何かを言い合う声が突き刺さる。

だがマトウォーネは、小さく丸まってしまいそうな背中を伸ばし、精一杯の勇気を出して前を見詰めて進んでいた。宿場町の様子を観察する余裕など無かった。ただ、隣にいるオースティンとスカビアスの存在だけが、今のマトウォーネの全てだった。

彼女の人生の中で、これ程までに勇気を出して挑んだ事は無かったのではないだろうか。極度の緊張と不安で、今にも卒倒しそうだった。

やっと、オースティンは軒を並べている店の中から宿を発見して、その前に馬を止めてひらりと馬上から下りる。その一瞬の動作で、マトウォーネに集中していた好奇の視線が、感嘆と憧憬の混じったものへと変化してオースティンに集まる。

未だに馬の乗り降りに慣れていないマトウォーネが、ゆっくりと馬から下りるのを確認して、オースティンは一足先に宿をとれるかどうかを確認する為に中に入っていった。

マトウォーネは小さな口を真一文字に引き締めた状態で、目の前の空中の一点を見詰める。両手は堅くマントを握り締めていた。

遠巻きにこちらを伺っている視線からマトウォーネを守る様に、スカビアスが立ち位置をずらす。怯えている少女を相手に、こうも無遠慮に人を見せ物にする事の出来る神経が信じられなかった。苛立ちと腹立たしさに、荒っぽく息を吐く。

この宿場町に生活している娘達もいたが、幾ら女の子が大好きなスカビアスでも、その様な心無い女の子は嫌だった。どんなに可愛らしい顔をしていても、きっと醜悪に見えてしまうだろう。

「空いているそうだ」

オースティンが中から半身を出してそう言い、その脇からこの宿で働いているらしい少年が、馬の手綱を受け取りにやって来る。マトウォーネの髪と目を見て、少年は不思議そうな顔をしていたが、彼がにこりと微笑むと自然とマトウォーネの肩から力が抜けた。

「宜しく」

スカビアスが少年にそう言うと、荷物を持ってマトウォーネを先に宿に入らせた。



スカビアスとオースティンは二人で一つの部屋にし、マトウォーネはその隣の部屋で一人で眠る事になった。いざという時の事も考えて、本来ならば三人一緒の方がいいのだろうか、年頃の少女を相手にそれも酷な話だ。旅の疲れもあるだろう。一人でゆっくりと休ませた方がいいと判断し、オースティンはその様に部屋をとった。

自分はガレオーンに居た頃は旅生活など普通の事だし、スカビアスにしては見た所新しい環境に面食らうタイプではない。

スカビアスが現れるまでは二人きりの旅の中で、お互いに過度に気を遣っていたのは分かっているし、加えて今回の事だ。ひ弱な彼女ながらも、気丈なふりをして心配をかけさせまいとしているのは分かるが、それがパンクしてしまっては元も子もない。

一人で寝ながら泣くのだろうか。

そんな事を考えながら、オースティンは数日の滞在に必要な物の荷物を解いていた。スカビアスは元からあまり荷物は無いらしく、そこらに小さな荷袋を放るとベッドでごろごろとしている。

気楽なものだ。

スカビアスの様な男とは、あまり面識が無い。彼の人生の中、出会った人間の半分以上は騎士や軍人だ。それでなければ貴族。スカビアスの様な、野育ちの楽天気な人間は見た事が無い。

嫌いな訳ではないが、時に彼が見せるあまりにも世間知らずで純粋な部分や、自分の感情を隠さずにストレートに表す姿を、素直に受け取れない自分がいた。

まぁ、それを言わせればスカビアスから見たら自分も大した堅物で、偉そうに見えるのだろうな、とオースティンは客観的に思う。

性質的には正反対だが、それなりに上手くはやっていけるだろう。ただ、スカビアスはマトウォーネの事を非常に気に入っているらしいから、その事でゴタゴタしたり戦闘の時に思わぬ隙を作って面倒を起こしたり…などは御免だと思っていた。

「飯まだ?」

子供の様にスカビアスが問う。

「マトウォーネが湯浴みに行っているからな。戻って来てからだ」

宿の地下には浴場があり、マトウォーネは荷物を置くとすぐにそこへ向った。旅の途中、野営している場所の近くに水場があった時はそこで髪を洗っていたりしていたのだが、ゆっくりと体の汚れを落としたり湯につかったりなどは無かった。年頃の少女が川や湖で裸になる訳にもいかず、ずっと我慢していたのだ。

「………なぁ、お前ってそれ、地の性格?」

いきなりそんな事を尋ねられ、オースティンは荷物を解く手を止めてスカビアスの方を振り向く。その目が「何だその質問は」と語っているのを察したのか、スカビアスは補足説明的に付け加える。

「や、何かお前の性格って堅苦しくてさ、見てて何か疲れるから…本人大丈夫なのかな? って思って」

かなりストレートな物言いだが、真摯な目や悪気の無い口調から言って心配してくれているらしい。

正反対とも言える性格の人間が居るのだから、互いの性格を理解出来なくて疑問に思うのも無理はないな、と思いつつオースティンは真剣に答える。

「生まれもっての…というか、少なくとも俺が今まで生きてきて培われた自然な性格だ。別にとりたてて作ったり演技しているつもりは無いが」

「ふーん…」

うつ伏せに寝転び、足をブラブラさせながらスカビアスが解った様なそうでない様な声を出す。全く未知の物体を目の前にして、それについての説明を受けた様な顔だ。

「一つしか歳違わないだろ? 俺ら。なのにこーんなに性格違うっていうか、お前何だか妙に大人っぽくて気持ち悪くてさ」

無邪気に笑うスカビアス。

「……自慢じゃないが、生まれが名門貴族だった事や父が『英雄』と呼ばれる人だった所為で、幼い頃から父の様な立派な人物になりたいと志を高く持っていたのも、まぁ原因の一つではあるな。

話すべき事ではないが、己の浅はかさで一人の人間の人生を奪ってしまった事もある。ガレオーンに入ってからは、何時の間にかトントン拍子に昇進していて、部下の命を預かる地位にいた。

何時までも子供のつもりでいたら、その様な責任のある地位は勤まらないし、騎士を諦めたとは言え俺は『英雄』の息子であるという誇りもある。……………多分、そんな所だろ」

自分の過去を思い返しつつ、自分が今の自分となった由縁を語る。決していい想い出ばかりではない。しかし、だからこそ今の彼が在る。生ぬるい生活や精神でもって生きていたら、恐らくもっと別の人間がいただろう。

「…ふーん…大変だったんだな」

他人から同情されるのは嫌いだ。だが、スカビアスの場合あまりにもストレートなので、変に言葉の裏側を想像する事もなくあまり嫌ではなかった。だが、勿論そんな事を口にするオースティンではない。

「や、でも何かさ。俺同じ位の歳の奴と話すの始めてだからさ。何か嬉しい。今まで友達つったら島の動物だけだったからなぁ…。ザンは大分年上だし…」

そう言ってスカビアスはベッドの横に立て掛けてある、彼の剣の柄をそっと撫でる。

「…そのザンという人からの貰い物なのか? その剣は」

オースティンの問いにスカビアスは首を振る。

「貰ったんじゃない。借りたんだ。俺、何にも無い状態で大陸に来たから。ちゃんと自分の剣持てる様になったら、きちんと返しに行くつもり」

澄んだ瞳でそう言い、スカビアスはそのザンという人物について少し話す。彼が大陸の海岸で倒れていたのを、漁をしていたザンが発見して色々と面倒をみてくれたという。

「暫くザンの所で働いてたからさ、魚採るのはちょっとしたもんだぜ?俺」

白い歯を見せて笑い、スカビアスは誇らしげに言う。

と、少し遠慮勝ちに部屋のドアがノックされた。ドアを開けると濡れた髪のマトウォーネが立っている。

「我が侭言ってすみません。終わりました。有難うございます」

全身が少し火照って上気し、白い肌が淡く紅潮している。体から良い匂いをさせるマトウォーネを、スカビアスはトロンとした目で見ていた。

「…………………何かあったのか?」

マトウォーネのそういう部分には気を取られず、オースティンは潤んでいるマトウォーネの目を見て、少し目を細めて問う。

「…………いえ…何も………お湯に当たっただけです…」

表情を微かに強張らせてマトウォーネが言い、オースティンの真っ直ぐな視線から逃れようとするかの様に目を逸らす。

ふう、と溜息を吐き、オースティンは腕を組むとマトウォーネに言う。

「話せ。これから長い付き合いになる身だ。隠し事をされて後から問題になっても困る。お前の為にもならん」

部下を持つ身を経験しているオースティンは、少しの変化も見逃さない。ちょっとした心の揺れが、戦闘に大きな影響を与える例がある。何かがあってからでは困るのだ。

唇をきゅっと結び、押し黙るマトウォーネ。繊細な指先は、落ち着かなくスカートの布地をいじっている。

「…………湯浴みに行っていた間に、誰かに何か言われたか?」

それまでの厳しい声とは打って変って、優しい声。

ひくりとマトウォーネの肩が震え、顔が真っ赤になる。分かりやすい。オースティンの言った通りの事が、どうやらあったらしい。

「どいつだよっ!! 俺がしばき倒してやるっ」

憤然と腕まくりをして、何処の誰かもまだ言っていないのにスカビアスはドアに突進する。

「待て。馬鹿者」

通り過ぎ様にスカビアスの腕を捕らえ、スカビアスの勢いそのままに遠心力でもって部屋の奥の方へと遣る。「むおっ」とくぐもった叫びを上げて、スカビアスはベッドに倒れ込んだ。スカビアスの剣幕にびっくりして顔を上げたマトウォーネに、オースティンは言った。

「…俺達は食事に行くが…来るか?」

『来れるか?』でも『来るだろ?』でもない。マトウォーネの意志を尋ねている。マトウォーネが大丈夫ならそれでいい。彼ら二人が一緒にいたとしても、嫌な思いをした直後に出掛けるのは嫌だと思うのなら、それでいい。

誘ってもいない、突き放してもいない言い方。

「………………今は……ちょっと……」

顔を真っ赤にしてやっとそれだけ呟くと、マトウォーネは自分にあてがわれた隣室へと行ってしまった。

「…………………あーあ…………」

複雑な表情で、スカビアスが嘆息する。彼のオッド・アイには、マトウォーネの泣き出す寸前の顔が焼き付いていた。胸が締め付けられる。マトウォーネにはいつも笑っていて欲しいのに…。

「行くぞ」

今のマトウォーネに対して言う事は無いのか、オースティンは聞き様によっては無感動ともとれる口調でそれだけ言うと、スカビアスを廊下に押し出して部屋の鍵を掛ける。

「部屋の鍵は掛けておけ」

ドア越しにマトウォーネにそう言うと、彼はさっさと歩き出した。広くはない宿屋なので、すぐに階段を降りて行く音が聞こえた。

スカビアスはオースティンが歩いて行ってしまった廊下を見詰める。日に焼けて少し色褪せた絨毯を数秒睨み付けてから、ドアの向こうのマトウォーネに優しく声を掛けるとオースティンの後を追った。

「マトウォーネ、帰り何か包んで貰って持ってくるから。飯、少し遅くなっちゃうけど待っててね。なるべく早く戻るから」

小走りに遠ざかって行くスカビアスの足音を耳にしながら、マトウォーネはドアにもたれたまま小さく鳴咽し始めた。

まだ濡れている長い髪の毛先から、水滴がポツリポツリと膝に垂れる。顔を覆った華奢な両手の間からもまた、透明な雫が肌を伝ってゆっくりと膝に落ちた。


ぶーたれた顔でスカビアスは乱暴に肉を切り、思い切りフォークで突き刺すとそれを口に放り込む。怒りのあまりに肉を噛むのもそぞろで、時折噎せては慌てて水を喉に流し込んでいた。

その様子を無視しているかの様に、黙々と食事をしていたオースティンだが、スカビアスが何度目かの噎せに苦しんで、目を白黒させているのを見てやっと重い口を開いた。

「………………落ち着いて食べろ。やかましい」

オースティンに注意され、スカビアスは子供の様につーんと横を向くと最後の肉の欠片を口に押し込み、乱暴に「御馳走様」を言うと食堂の料理人に、持ち帰り用の物を頼みに行った。

オースティンが食事を終えた時には、スカビアスは既に食堂から姿を消していた。決してオースティンの食べる速度が遅い訳ではない。スカビアスが猛烈に早食いだったのだ。命を賭けて早食い勝負をしているかの様に、彼の食べっぷりは凄まじかった。

食堂に行くまでや、食事をしている最中にマトウォーネに対しての態度について何か口うるさく言われるかと思っていたが、予想に反してスカビアスは何も言わなかった。それでも、彼が面白くなく思っているのは、その表情で一目瞭然だったが。


涙を流したまま、マトウォーネは堅いベッドに横たわっていた。

うつ伏せになっている為、宿屋特有の布団の匂いがする。沢山流した涙が、ベッドカバーに大きな染みを作っていた。

一度泣いてしまうと、なかなか泣き止む事が出来ない。

原因は、湯浴みをしに宿の地下へ行った時に、聞こえよがしに言われた言葉だけではない。涙は辛い想い出を、次々と蘇らせた。

亡き人々への想い。

「帰りたい」と思うホームシックの心。だが、帰る場所はあってもそこに人は誰もいない。

慣れない環境の中での不安。

オースティンの真っ直ぐで強い瞳が、マトウォーネの弱く柔らかくなっている心に突き刺さる。

「………たすけて……」

逃げ出したい。

温かい腕の元へ帰りたい。

でも      誰もいない。

「マトウォーネ?」

自分の感情の波にさらわれて、廊下を歩いて来る音に気付かなかった。ノックと共にいきなり聞こえたスカビアスの声に、マトウォーネは跳ね起きた。

やけに早いが、食事を終えたのだろうか。

目を擦って涙を拭き、鏡で顔をチェックする。野生児然としていても、スカビアスは若く美形の類に入る青年だ。みっともない顔は見せたくない。

鏡に向って無理矢理微笑んでみせる。

滑稽だ。

腫れてしまった瞼は、この一瞬でどうにかなるものではない。諦めてマトウォーネはドアへ向う。せめて精一杯元気な顔を見せて誤魔化そう。そう思った。

        はい」

廊下の薄暗い照明を背に立っているスカビアスは、マトウォーネの顔を見て彼女が泣いていた事を悟る。どう対処していいのか一瞬迷うが、大好きな女の子の泣き顔を見せられて黙っていられる彼ではなかった。

「……大丈夫?」

空いている方の手で、そっとマトウォーネの頬に触れる。そうっと指先を移動させ、濡れている目尻を拭ってやる。少女の潤んだ大きな瞳の中に、自分が映っている。

「…大丈夫です。有難う」

パッと下を向くと、マトウォーネはスカビアスの手を取り礼を言う。ふくよかな頬からそっと外された手を、所在なさげにしていたスカビアスだが、本来の目的をハッと思い出して、もう片方の手に持っていた包みを渡す。

「はい、これ…。食欲無いかもしれないけど、食べて」

温かい包みは、スカビアスがあれもこれもと注文したお陰で、こんもりとしていた。包みの大きさにスカビアスの優しさを感じ、マトウォーネは微笑むと礼を言う。

それきり、何を言っていいのか分からずに黙ってしまったマトウォーネに、スカビアスは何か話し掛けようかと口を何度か開きかけるが、取り立てていい言葉も出て来なかったので、断念した。

「じゃ、俺も湯浴み行ってくるから…。戸締まりちゃんとしてね」

そう言うと、引き締まった体を翻して部屋に戻って行った。

自分は、あの優しい人に心配を掛ける事しか出来ないと思いつつ、スカビアスの持って来てくれた包みをテーブルに置き、目隠し程度に包まれている簡易包装を取る。

「………………」

中身はてんこもりとした肉料理だった。

菜食主義のマトウォーネはそれを見て絶句し、破顔した。肉は食べる事は出来ないが、付け合わせの野菜も肉の量に比例して、平均よりは多かったので、有り難くそれを食べた。

ゆっくりとそれを食べながら、肉をどうしようかと思い悩んでいると、廊下から足音が聞こえる。オースティンが帰って来たのだろう。

ポリポリと豆を齧りながら考える。

折角買ってきてくれたのだから、棄ててしまうのは論外だ。かといって明日の朝にスカビアスとオースティンに食べさせるのも、本人を目の前にして何だか嫌味な気がする。いつまでも取っておいても、保存用の料理ではないから日持ちはしない。

宿の裏に、飼われている犬がいた筈だ。その犬にやるのがいいのではないだろうか。

そう結論を出すと、マトウォーネは肉を包み直してテーブルに置く。スカビアスとオースティンが寝てしまった後に、犬にやりに行くつもりだ。彼らが起きている間に行動して、もしもスカビアスに見られてしまっても嫌だし、夜の方が人と会う確率も低いだろう。

ナプキンで口元を拭って、マトゥオーネは夜を待つ事にした。


窓の外もすっかり暗くなり、通りから人々のざわめきも消えている。微かに、屋内から笑い声やまだ眠りたくないとごねる子供達の声が聞こえる程度だ。

細い肩にショールを掛け、そっとドアを開ける。廊下はしんと静まり返っていた。隣室からは、スカビアスのものであろう豪快な鼾(いびき)が聞こえる。口元に小さな微笑を浮かべ、足音を忍ばせてそっと薄暗い廊下を歩く。

フロントがある地階に下りると、フロントに立っている中年の男性と目が合う。マトウォーネの容姿を見て、彼は少しぎょっとした顔をした。彼女は少し俯いて、軽く会釈をすると外に出て行った。

涼しい空気が頬と二の腕を掠る。

夕方の喧燥は何処かへ消え、代わりに温かい静けさがあった。夜、眠る前の心地良い時間。マトウォーネもこの時間が好きだった。

アルスでは、街灯という物が無いので夜になると外は真っ暗になってしまうが、その代わりに家の窓から漏れる明りは一層明るかった。ランプを片手に暗い夜道を歩くと、温かな光の漏れる家からは家族が談笑する声が聞こえた。

よく、夜になると友達の家に集まってこそこそと話をしたものだ。昼間に仕事をしながら散々話したというのに、年頃の少女達の話題は尽きる事がなかった。

目元は悲しさを残しながらも、マトウォーネの口元は僅かに微笑んでいた。少しずつ、楽しかった想い出も呼び起こす事が出来る様になって来た。絶望と怒りと哀しみに彩られていた心は、少しずつ穏やかな色を取り戻しつつある。

「おいで」

宿の裏手まで来ると、小さな犬小屋に向って声を掛ける。犬小屋の中から、ジャラリと鎖の音を立てて大きな犬がのそりと出て来る。犬はマトウォーネを見て、果たして何者なのかを見定めているかの様だったが、もう一度マトウォーネが声を掛けると、警戒を解いて鼻を鳴らしながら近寄って来る。

「いい子ね」

肉の入った包みを置き、まずは犬を優しく撫でてやる。固くてチクチクとした体毛だが、指を毛に潜らせると中の方は柔らかかった。優しい愛撫に、犬はクンクンと鼻を鳴らして身を摺り寄せる。

「御主人様には内緒よ? 私、お肉食べられないから…代わりに食べて頂戴。お友達が折角買って来てくれた物だから、無駄には出来ないの。私の代わりに貴方が美味しく食べてくれたら、それでいいわ」

優しく声を掛けてやりながら、マトウォーネはカサカサと肉の入った包みを開ける。肉の匂いを嗅ぎつけて、犬は千切れんばかりに尻尾を振った。

「お食べ」

一口大の肉を手で差し出すと、犬はマトウォーネの手も食べてしまいそうな勢いで、それに齧り付く。肉を一飲みで食べてしまうと、マトウォーネの手をペロペロと舐めた。

「餌付けか?」

苦笑した声がいきなり背後からし、マトウォーネはビクリとして膝の上に載せていた包みを落としてしまう。嬉々として犬はそれに食らいつく。

「ぁ………」

暗闇に身を溶かす様に立っていたのは、オースティンだった。

「っきゃ!」

あっという間に肉を食べ終えた犬が、「もっとくれ」とマトウォーネの顔を舐め回す。大きな犬に覆い被さられる様な状態なので、マトウォーネの服は犬の足で泥だらけになっていた。

びっくりした様な情けない様な顔をして、こちらを見上げているマトウォーネを見て、オースティンは小さく笑う。そして、「おあずけ」と言ってマトウォーネを抱え上げる。

「………………あの、犬をどけてくれた方が…」

犬の餌の様な扱いを受けて、マトウォーネが情けない顔をする。彼女を立たせながら、オースティンは笑って言った。

「鎖に繋がれている犬を抱いたら首が引っ張られて苦しいだろうが。それに、犬は人間と違って下側に内臓がついてるからな。無理に抱いたら苦しがる」

「はい…」

そういえば、初めて見た様な気がするオースティンの笑い顔を見ながら、マトウォーネは頷く。

こんな顔をする人だっただろうか…?

優しい顔をして犬の腹を撫でているオースティンを見て、マトウォーネはぼんやりとそう思っていた。

「……その内、その菜食主義も治ればいいのだがな」

犬を撫でながらオースティンが言い、マトウォーネはハッとして口元を覆う。そして、少し沈黙してからおずおずと謝った。

「………すみません……」

暫く、柔らかい静寂があった。

気温の高い日だったので、夜の風が気持ち良い。まばらに雲が浮かぶ夜空に、満月に近い大きな月と沢山の星が散りばめられている。草むらでは虫達が軽やかな音を奏で、水場では蛙が鳴いていた。

良い夜だ。

だが、マトウォーネの心は酷く沈んでいた。全てを見透かしているかの様なオースティンの前にいると、自分が情けなくて泣けてきてしまう。

「何でもすぐに謝るな。謝ったからといって、どうにかなるものでもないだろう」

「……………はい」

消え入りそうな声でそう答えるマトウォーネの声を聞き、オースティンはどうしたものかと一つ息を吐く。別に苛立ちや呆れなどからの溜め息ではないのだが、マトウォーネはそれを聞いて自分が彼の機嫌を損なってしまったのかと思い、更に俯いた。

仕上げにわしわしと犬の頭を撫でてやると、オースティンは立ち上がる。思わず見上げたマトウォーネに、彼は穏やかな声で言う。

「…俺は別にお前を苛めたかったり、泣かせたくてこういう事を言っているんじゃないからな」

コクリと少女は頷く。それはよく解っているのだ。だが、彼の言っている事があまりにも正しく、自分があまりにも卑屈で小心者だから、そのギャップに彼女は嘆いているのだ。

「…これから、恐らく長くなるだろう旅の仲間として、強くなって欲しいんだ。何かの時に皆の迷惑になるという事もあるが、まず一番には男だからとか女だからと言って一方的に守ったり守られたりとか、そういう関係にはなりたくない。俺はお前に対等に話して、前でも後でもなく隣を歩いて欲しい。それが仲間だと言う事だから。

甘やかして、辛い事や悲しい事から隠したり守ったりする事は簡単だ。だが、それでは何一つとしてお前の為にならない。…解るな?そんな事をしていたら、お前は一人で歩けない人間になってしまうから」

オースティンの言葉を聞いていると、それまでの情けない思いが薄れてきた。彼は物凄く自分の事を真剣に考えて、思ってくれている。ただ、守るだけのお飾りの女の子ではなく、一人の人間として見てくれている。

それを思うと彼の思いに応えられる様に、しっかりしなくてはと思った。運命共同体という事になったからといって、ほとんど付焼き刃的な仲間に対して、ここまで真剣に考えてくれる人も居ない。

だが、オースティンの求めている敷居は高い。そこに到達するには、自分の抱えているコンプレックスや、弱さを克服しなくてはならないのだ。

完全に強い人間などいない。弱点を無くせと言っているのではない。ただ、自分の弱さの所為で他人を引きずり込んだり、自分を貶める様な事はしてはいけない。

「俺は世間から色々言われているが、そんな立派な人間ではない。ガレオーンにいたのも、人の役に立ちたいとかそういうものではなく、ただ家族の仇の情報を得る為だけに居たに過ぎない。

自分の無責任さ故に一人の人生を奪ってしまった事もある。頭には復讐と、何かをする時の目的遂行しかないから、その所為で多くの人を踏み付けたり傷つけたりしてきた。

女を愛した事もない。誰かに『お前は心の無い人間だ』と言われた事もある。自分でも嫌になるくらい冷静で現実主義者だ」

静かに、オースティンは自らの短所をマトウォーネに曝け出す。ほとんど欠点など無さそうなオースティンの口から、そんな言葉を聞くのは意外だった。

「でも…私、凄く尊敬しています。私と少ししか違わないのに、凄く大人だし…。私なんていっつも感情に左右されて、大切な事見落としたりしてて…」

食事に行く前のスカビアスと同じ事を言われ、オースティンは複雑に笑う。誰から見ても、自分はそう見られているのだ。年齢以上に大人びていて、無駄な事はしないから余計な心配や悩みは無く、普通の人とは違って、いつも政治の事や学問の事を考えている       

まるで血の通わない完璧な人工人間だ。

そうではない。

自分はもっと…呆れる程に頑固で融通の利かない、どうしようもない人間だ。心で何かを感じ取る事が苦手だから、それを避けているだけに過ぎない。

       とにかく、何かを強制するつもりは無い。弱点を無くせなど、馬鹿げた事を言っている訳ではない。これからの共同体である俺達に、少しずつでいいから心を開いて欲しい。そして、俺達が必要としていて信じたいと思っているお前自身に、誇りを持って欲しい」

「…………はい…努力します」

今夜オースティンと話した事で、少し彼の事を知った気がした。思っていたよりも、彼はずっと思慮深くて他人の事を考えられる人間だ。相手がどんな人間であっても、その人の枠組みを見ないで一人の人間として見てくれる。

恐らく、これから長く共に生活していく中で、もっと長所を見付ける事もあれば、短所を見付ける事もあるだろう。それは自分にしても同じだ。

自分の短所が目に付くならば、それを教えて貰えれば改善しようとする心はあるのだから、自分もなるべく思った事は口にしようと思った。そうすれば、早くお互いに近付く事が出来る。

喧嘩をする事もあるだろう。だが、それはお互いを一個人として見ている証拠だとして、良い方向に受け止めよう。

「…戻るぞ。ここで少しゆっくりする予定だとは言え、夜更かしして体調を崩しても困る」

「はい」

泥だらけのスカートをほろい、大きな犬に別れを告げる。犬は淋しそうな声を出し、二人が戻って行くのをずっと見送っている。

隣を歩いている長身の青年に対して、マトウォーネは今までよりも少し近付けた気がしていた。時間を掛けて少しずつ距離を縮めて行こう。そう思った。

 

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